第40話:暁に秘めた声

 久しぶりのことに疲れたのだろう。菫は日が落ちてすぐに眠気を覚えた。衾をかぶった記憶もない。

 おかげで翌朝、目を覚ましたのは雲よりも先だった。しとみを閉じた灯り取りからは、まだ薄紫しか漏れてこない。


 神やそれに近い存在でも眠るのだなと、最初のころは感心したものだ。今朝も絹の単衣が静かに上下している。ほっと安堵して、抱えた自分の膝を手放した。


 ――狗狼はまだ帰ってないよね。

 宴は夜遅くまであったはずだ。そのまま御所へ泊まると言っていた。壁越しに見たとて所在は分からないが、狗狼の部屋に向けて寝返りを打つ。


 と。

 すぐそこに、狼の顔があった。仰向けでなく、こちらを向いて眠っている。真っ黒な鼻先から聞こえる静かな息が、規則正しく頬をくすぐる。


「くろ――」


 咄嗟に、お帰りを言おうとした。しかし慌てて口を噤む。寝ているものを起こしてまで言うことではない。

 だから今は声に出さず、「お帰りなさい」と唇だけを動かした。


 じっと、狗神の顔を眺める。

 薄墨色の中、額に白い模様があった。勾玉と言おうか、人魂と言おうか。珠が尾を引き、くるりと輪を描く。


「あなた、誰?」


 その模様が、ずっと気になっている。なにか懐かしい気持ちを強く湧かせるというのに、どうしてだかは全く分からない。

 しかしそれは、もういいやと思い始めた。誰であろうと、狗狼は菫を守ってくれる。この祠の主として、生け贄にされた菫への義務でしかないとしても。現実に危機を救ってくれたのだから。


 ――父さんが生きてたら、こんな感じなのかな。

 衾の下から、そっと手を伸ばす。感触だけで、彼の身体を探り当てた。どうやら胸だ。衿がはだけているらしく、柔らかい毛が手首をくすぐる。

 父に甘えた記憶はない。優しかったが、抱きしめてくれるような男でもなかった。すると、母に甘えていたのか。それは父でないからと、推測でしかないけれど。


「ねえ、狗狼。東宮って人は、わたしを守ってくれるかな」


 自分の非力さが怖ろしい。男と同じに山を巡り、獲物の数を競えても。単純な力では敵わない。いくら戸締まりをしたところで、男が本気になれば破壊することは容易い。


 もう、一人で生きることなど考えられなかった。誰かに寄り添ってもらわなければ、夜に眠ることもきっと出来ない。

 狗狼と雲に挟まれていなければ、昨日は必ず気を違わせていたはずだ。


「わたし、独りは嫌だよ」


 喉の奥から、寂しさが這い上がった。それは夜闇に荒ぶ吹雪のごとく、寒さと渇きを与える。そして同時に、頼りとなる灯火を奪うのだ。

 暖かな衾の中でなお、がたがたと震えが止まらない。

 菫は救いを求め、隣の衾へ潜り込んだ。太い腕を引き寄せ、逞しい胸板に頬を寄せる。それでなおかつ、「大丈夫、大丈夫」と己に言い聞かせた。


 幾ばくか。短くない間が過ぎて、激流のようだった鼓動が治まる。しかし凍えた心は、すぐに温まらない。

 じわと濡れそうになる瞳を閉じ、鼻を啜り上げた。


「誰か――助けて」


 どうすれば助けたことになるのか、菫にも分からない。はっきりしているのは、今ここにある狗狼が温かいことだけ。

 息を整えたら、自分の寝床へ戻ろう。そう決めて、あと少し、あと少しと引き伸ばす。

 いつしか菫は、再びの眠りに落ちていた。


 さらに再び目覚めたときには、既に狗狼の姿は無かった。傍で着替えの準備をする雲に「お早う」と言われ、寝呆けた声を返す。


 ――あれ。わたし、狗狼に抱き着いたままだったんじゃ……。

 はっと、一気に目が覚めた。勢いで雲を見るが、そのことを言い出す気配はない。


「なんだい?」

「う、ううん。狗狼は?」


 なにか言わなければと焦って、狗狼の名を出してしまった。起き抜けに聞くなど、いかにもおかしい。


「居るよ。なんだい、土産かい? 菫が旨いって言ってたから、饅頭を持って帰ってたよ。昨夜、かなり遅くにね」

「そ、そう。嬉しいな」


 雲の微笑みが、なにか意味深に見える。もちろんそれを、どうかしたかと聞くほど迂闊でないが。


「どうかしたかい?」

「なんでもないってば」

「そうかい」


 分かっていていつもの意地悪をしているのか、それとも分かっていないのか。考えても埒が明かず、気のせいと思い込むことにした。

 雲も普段と全く変わらぬさまで、身支度の手伝いが甲斐甲斐しい。


「菫、起きたか」

「うん、起きてる」


 すっかりと終えたところで、狗狼の声がした。部屋の前、障子戸越しに。

 入るぞと断って、すぐに狗神は戸を開けた。鋭い視線が高い位置から、菫を見下ろす。


「顔合わせだがな。除目の落ち着いた後、二十日と決まった」

「二十日って、今月の?」

「もちろんだ」


 彼が目覚めたとき、菫はどうだったのか。狗狼にも、いつもと違った様子がない。


「大納言の主催で、歌会が催される。お忍びで訪れた東宮が、偶然にお前と会う。もしも互いに気に入らねば、それきりというのも可能なわけだ」

「大丈夫。よほどじゃなかったら、わたし構わない」


 女を物としか扱わぬ、最低の男はそうそう居まい。なんの根拠もない予測を信じ、菫は強がりを答えた。

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