第39話:山と話す
そうと決まれば、菫には慣れた準備だ。裁縫や料理も努力を重ねているが、積み上げた時間が違う。
小袖に着替え、厨に置いてある薦を巻き付ける。それを長い細縄で何重にも結び、鉈を括り付けた。あとは弓だが、菫の使っていたのは祠に無い。しかし当てがあった。
「あれ。ねえ雲、ここに弓を置いたよね?」
かまどの対面の壁へ作りつけられた棚。普段使わない、ざるなどの置き場に手を伸ばす。しかしつま先立ちで懸命に探っても、それらしき感触がない。
「あの弓なら、持ち主に返したはずだよ。見なかったかい?」
「ええ?」
「あんたを迎えに行くときにさ。狗狼が持って行ったんだ」
菫を返せと、進ノ助の捧げた弓。
なるほど返すと返されるが、逆になったということらしい。思えば菫の記憶を失くして、事情が全く分からなくなっただろうに。乙名はどう納得を付けたのやら、気の毒に思う。
居たはずの女が消え、無かった弓を抱えて眠っている。化けて出たとでも理解してくれまいか。
「それならいいや」
諦めて振り返ると、雲が目の前に居た。菫を真似たらしく、単衣の上へ薦を巻いている。
「さあお師匠さん、どうすりゃいい?」
「弓が無いなら、罠を仕掛けるだけだよ。行こう」
いつも狩りへ出るときは、なにを狙うか決めていた。小物向けの罠では大物に壊されるし、大物向けの罠では小物がすり抜ける。獲物に合った罠を、その獲物の通る場所に仕掛けなければならない。
今日はそこまで気負う必要がなかった。以前の菫の日常を、雲にも体験してもらうのが主旨なのだから。もちろん獲れれば、ありがたくいただくけれども。
ただし、いつもと言ったところで狩り場が違う。麓から登ってくるのと、山頂方向から下りるのと。狩りをせぬ者には、同じ場所だと言われよう。しかし違うのだ。
たとえばたった一つの罠でも、住処からどこを通って仕掛け、どこを通って帰るのか。獣は決して、行きと帰りに同じ道を通らない。たったそれだけを妥協しても、数ヶ月はその場所から獣の姿が失せる。
「なるほどねえ。で、それはなにを採ってるんだい」
世間話の代わりに、狩りのいろはを雲に聞かせて歩いた。雪はあれから、ほとんど降っていない。くっきりと付いた菫の足跡を、雲は寸分違わず踏んで歩く。
「知らない?
枯れ葉をしつこく蓄えた樹木を見つけ、枝の先から繭を取った。中が白く、表だけが淡い緑色に透ける球。抜け出てすぐならば、もっと艶があって石英のごとく輝くのに。残念に思いながら、手に載せて示す。
「それは知ってる。もう中身が居ないだろうってのさ」
「うん、糸を使うの」
よく見えるように摘み、反対の手で繊維を引っ張り出す。爪と爪で、ほんの一本か二本を取り出し、そのまま縒り合わせて糸にする。俗に
何度も繰り返し、二尺ほどを五本作った。残りを雲に渡すと、あっという間に同じだけを拵えた。
「さすが、凄いね。作ったことあるの?」
「いいや、今が初めてさ」
彼女の器用さは、よく知っている。驚きはしても意外でない。それよりも雲のほうが優れていることを、心から嬉しいと感じた。
「最初はここに仕掛けよう」
木のまばらな斜面を選び、下った。その先へ、小さな淵を抱えた沢がある。祠に近すぎて、これまでは罠を仕掛けたことのない場所だ。
「水飲み場だね」
「うん、そう。枝が多いから、貂とか狸かな」
真冬にも凍り付かぬ、細いが速いせせらぎ。ちょうど風呂にすれば良いくらいの窪みへ流れ込み、低木と倒木に囲まれている。
まずは手本を見せねばならない。しなりのいい枝を引き寄せ、細縄で括り罠を拵えた。水際へ至る地面に仕掛け、その上に指よりも細い枝を渡す。両者を天蚕糸で結び、罠の完成だ。
あとは落ち葉を撒いて偽装し、他の通り道をなにげない風で塞いでおけばいい。
「この小さい枝を踏むと糸が外れてね、縄が脚を縛るんだよ」
「うん、分かるよ。よく考えたもんだ」
「わたしが考えたわけじゃないよ」
理解すれば、それほどややこしい仕組みではない。難しいのは仕掛けることでなく、罠のある場所へ獣を通すことだ。運もあるけれど、獣との知恵比べの側面が大きい。
「菫。楽しそうだね」
「え、わたし笑ってた?」
人間の臭いが付かぬように。なるべく土を掘らぬように。狗狼の話を思い出しながら、落ち葉を集めた。すると雲が、ぽつりと言う。
自覚はなかったが、そうだったろうか。頬に触れてみるけれど、分からない。
「面白おかしく笑い転げるばかりが、楽しいってこともないだろうさ。なんていうか、真剣に生業としてたのが分かる顔だよ。そのうえで、なんだろうね。やっぱり楽しそうって言葉にしか出来ない」
唐突になにを言い出したやら、「はあ」と間の抜けた返事をしてしまった。だが楽しそうと二度言われて、その意味を噛み砕く。
「……うん、そうだね。獣がたくさん居るのもあるけど。わたし、この山が好きだもの。奥深くて、表情がたくさんあって。他の山となにが違うって言われたら、うまく答えられないけど。わたし、好きだよ」
どう答えれば良いかうまく纏まらず、思いつく言葉を並べた。伝わったか不安を視線に託すと、雲は大きく頷いた。
「そりゃあ、なによりだ。実は、ちょっと不思議に思ったんだ。あんた怖いのは嫌だって、狩りは別なのかとね。いや、もう分かったよ。あんたはそうやって、この山と話してるんだ」
「な、なにそれ。狗狼や雲は出来るのかもしれないけど、わたしには無理だよ」
現実に木や獣と話せそうな雲にそんなことを言われても、自惚れるのは不可能だ。恥ずかしさに頬が熱くなった。
薦から抜き取った茎の一本を枝に結びつつ、小さく手を振って否定する。
「そういうんじゃないよ。わたしだって寝起きしてる近くへ兎が迷い込んだら、頭を撫でてあげるよ。でも狩ると決めて山へ入ったら、獲物としか思わない。自分が生きるには、そうしなきゃいけないんだもの。半端をしたら駄目なの」
すらすらと、自分の想いとして出てくる言葉。しかし元は、東谷の師匠たちに教わったことばかり。そう考えると胸が苦しく、雪を払うふりで乱暴に頭を揺すって追い出した。
「分かったよ、お師匠さん。それで今は、なにをしてるんだい?」
唐突な問いは、唐突に終わった。見透かされているなと、それは雲の優しさがありがたい。
「これ? 誰が罠を仕掛けたか、目印だよ。四つ羽のちょうちょが、わたしってこと」
「へえ、横取りされないようにだね」
「そう。あとは、一人が狩りすぎないようにかな。あ、わたしが仕掛けたって分かったらいけないね」
四枚の翅を持たせた、蝶を模した結び目。東谷の者が見れば、菫の手と知れてしまう。無意識にやってしまったのを解こうとすると、雲の手が止めた。
「大丈夫だよ、誰も気付きやしない。さ、次に行こう。今度はアタシが仕掛けてみるよ」
「う、うん。分かった」
それから半日ほどで、二人は九カ所を仕掛けた。雲がその最初から、菫よりも手早く罠を仕掛けたのは案の定だ。
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