第三幕:冬の菫
第38話:新しい年
新春。
新しい年が訪れ、菫は十七歳となった。元日の朝早く。夜の明けきらぬうちから、狗狼は出かける準備を始める。人間の姿であるところの賀茂宮の顔で、持ち物に不足がないか雲に確かめさせた。
「
「前に見せてやっただろ。貴族たちが集まって、酒を飲むのさ」
「でもあれは、日が暮れてからだったよね」
「真面目な連中は、朝から忙しくしてる。帝と挨拶する順番を待って、歌会に出て。狗狼は不真面目な側さ」
思い出すと、顔を見せるのさえ珍しいと言われていた。ちらり、狗狼の顔を覗き見るが、気まずげな様子はない。むしろなにを手伝ってもやれず、棒立ちの菫のほうが手持ち無沙汰で心苦しかった。
「睦月は年の初めで、初のなんとかって行事が目白押しなんだ。本当は狗狼も、いちいち出なきゃならない。七日の
数ある御所の行事をすっぽかしてばかりだと、
「今日の宴は、酒も餅も出るから。不精者もせっせと出かけるわけさ」
「そうなんだ。楽しんで来てね」
雲が狗狼を不精などというのは、いつもの冗談だ。彼が毎日忙しくしているのは、菫も十分に知っている。
だからせめて、楽しめるときには本当に楽しんでほしい。そう考えたのだが、当人にじとっと睨まれた。
「お前たち、我が暇を持て余していると思っていないか」
「違うのかい?」
「睦まじの宴は、最も多くの人間が集まる催しだ。次第も無く、生の声を聞くのにうってつけなのだ」
反論ならば、雲に言えば良いものを。なぜか狗狼の視線は、菫に注がれる。
ただ、一見には怖ろしげな鋭い目だが、隠しごとの無い美しい瞳だと思う。これほどじっと見られては恥ずかしくて、俯いてしまうが。
「それに今回は、もう一つ用件がある。朝から向かうのは、その為だ」
視線を外しても、狗狼の顔がこちらへ向いているのは分かる。
四方を護る狗神が、菫一人を気にかけてくれることを。神の用件を途中で切り上げ、駆けつけてくれたことを。改めて意識すれば、胸が高鳴る。
とくとくと、穏やかながらに強まる心音が心地いい。
――山神さまを独り占めにした気になるなんて。
これは優越感であって、他の誰かに知られてはならぬ浅ましい思いだ。ゆえに菫は、嬉しいという気持ちを知られぬように努めた。狗狼にも、雲にも。
「東宮との件、纏めてくる。楽しみに待っていろ」
「えっ。う、うん」
もう一つの用事とは、菫の縁談についてらしい。どういう仕組みか知らないが、狗狼が言えば向こうから断ることは無いと既に聞いた。
妻になると決めはしたが、その前に一度くらいは話しておけとも。纏めてくるとは、その辺りの日取りを決めるに違いない。
「行ってらっしゃいませ」
「あ。い、行ってらっしゃいませ」
ぼんやりしている間に、狗狼は祠を出て行った。頭を下げる雲に倣い、菫も腰を折る。
「ねえ、雲」
「なんだい?」
背中が見えなくなって、すぐに雲の名を呼んだ。
しかしどうしてだか、自分でも分からない。なにか問おうとしたとは思う。ほんの一瞬、どうしても聞かなければと感じたはずだ。
「ううん、ごめん。なにか聞こうとしたんだけど、忘れちゃった」
「そうかい? またいつでも聞いとくれ」
雲は最初に会ったときと変わらず、気安い。彼女も歳神の娘という、たいそうな存在だ。それがどれほどかは、想像もつかない。
狗狼と雲が、なぜ菫を特別扱いしてくれるのか。この疑問にも答えが出ていないけれど、いま問おうとしたのとは違う。
なぜなら近い将来。いつかこの祠を出て行くときに、もう一度聞こうと決めているから。
「さて、アタシたちは代わり映えしないね。今日やることに、なにかお望みがあるかい?」
「今日やること? うぅん……」
正月に用意する料理は習った。すると宴の当日に作る料理を教えてもらうか、新しい琴の曲を知るか、それとも歌か。
知るとは、際限がない。惜しげもなく教えてくれる雲には、感謝してもしきれない。
――教える、か。
ふと、思い付いた。悪ふざけめいてはいるが、雲なら楽しんでくれるのではと。感謝には程遠いけれど、喜ばれるなら意味があるだろう。
「良かったら、だけど。交代してみない?」
「なんだいそりゃ?」
問い返す顔には、既に笑みが増している。悪ふざけは雲の好物と、嫌というほど知った。
「今日は狩りをしてみようよ。弓と罠と、雲は知ってる?」
「知ってはいるね。でもやったことがない」
「やってみない?」
「なにを言ってんだい。そんなもの、このアタシが――」
そんな馬鹿な。とでも言いたげな、苦々しい表情が拵えられた。ご丁寧に、いやいやと手も振られる。
しかし三つを数える間も持たない。直ちに破顔して、雲は答えた。
「やるに決まってるだろ」
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