第37話:大切なもの

 狗狼はおもむろに、破った壁へ破片を当てがい、修復していった。槌や釘を使うでもなく、ゆっくりと指でなぞれば元の一枚に戻る。


 ――ああ、狗狼だ。

 進ノ助への怒りを残しながらも、黙々と作業をする背中。これに生かされていると、ひとり菫は頷く。


「さて戻るか」

「えっどこへ」

「祠に決まっている」


 直した壁とは反対の、縁を覆う引き戸が開けられた。冬の透明な陽射しが降る下で、狗狼は再び狼の姿となる。


「乗れ」


 前脚を投げ出し、顎を床に着けた背へ、跨がれと。歩み寄り、水墨色の起伏に触れる。

 短い、と言っても手の埋もれるほどには長い毛が、若干の頑固さを持って手の平を撫でた。


 しかし気になることが多すぎて、ためらってしまう。

 進ノ助の言う「殺した」とは、誰が誰を。「菫が悪い」という言葉に従えば、わたしが? と疑うことになる。

 もちろん全く覚えにないし、相手が誰なのか候補も上がらない。


「どうした、なにか気になることでもあるのか。人払いもいつまでもは出来んぞ」


 狗らしく、狗狼は後ろ足で首の後ろを掻いた。そのさまはいかにも呑気に見えて、進ノ助の声を聞き違えたかと思わせる。


「ええと……」

「雲のことなら案ずるな。菫の為と信じていたが、行き過ぎと悔やんでいた。お前が許してやれるなら、また甘えてやってくれ」

「聞いたの?」

「叱っておいた。しかし我らには、恐怖の感情が薄いのでな。明日は我が身だ」


 この場を離れることに迷う意味では、雲の件が一番だった。だがたしかに、あれほどの力があれば怖いと感じるのも稀だろう。そのうえで菫を大切に思ってくれるから、あれほど怒ったのだろう。


 ――進ノ助を忘れたいのも、忘れられないのも、雲のせいじゃないのに。


「狗狼。わたしのほうこそ、雲にひどいことを言ったの」

「そうか、ならばお互いさまだ。二人して気が済むまで、頭を下げ合うがいい。しかしまずは戻らねば、それも叶わん」


 フッ、と小さく息が吐かれた。早くしろとため息にも聞こえたが、菫には笑声と信じられる。


「さあ、帰るぞ菫」

「う、うん!」


 こうまで繰り返されては。帰るぞとまで言われては、断ることなど出来ない。

 肯定してしまえば、すうっと楽になった。胸の内が軽く、もじもじと考えていたのが馬鹿馬鹿しく思えた。


 滑らかな毛並みに滑りながらも、どうにか跨る。特に掴むところが無く、狗狼は毛を握れと言った。

 痛そうだが、他に方法もない。大きな背に伏せ、鷲掴みにする。と、鼻腔に彼の匂いが充満した。


 ついさっき、抱きしめられたときにも感じた。山を駆ける獣とは違う、いい匂いだ。どこかで嗅いだことのある、素朴な匂い。


 ――土と、お天道さま。それに、藁の匂い。陽を浴びた、畑の匂いだ。


 胸も腹もいっぱいになったところで、狗狼は「行くぞ」と床を蹴った。

 けれども重要な事実を失念していたことに気付く。今さら止めても間に合わない。大きな狼の身体は、既に建物を飛び出した。


「狗狼、二階!」

「案ずるな」


 そのひと蹴りで、向かいの屋根より高くへ飛んだ。宙で反転し、またひと蹴り。今度は町のどの木よりも高く上がった。

 ぐんぐんと、狗狼は天へ向かって行く。このまま月へ向かうかと思う勢いで。


 そのまま一旦は、山頂を見下ろした。どうするかと思えば、垂直に落下し始める。獲物を捕らえんとする、隼のように。

 なんだか感覚もおかしくなってしまい、速度や高さに怖いとは思わなくなった。「きゃあ」と勝手に漏れる悲鳴も、恐怖に依らない。


「騒がしいお帰りだねえ」


 違えることなく、狼の足は祠の目の前へ着いた。そこには雲が、困った風に笑って待つ。

 狗狼の背を降り、菫は駆けた。真っ直ぐに、雲の胸へ飛び込む。


「ごめんね雲。雲の言う通りだった。雲の言うことを聞いてれば、わたし怖い思いをしなくて済んだのに」

「そんなことない、アタシがあんたを分かってなかった。勝手をしてごめんよ」


 真っ白な袖に包まれ、良かったと思う。ここが居場所なのだと、改めて思う。

 姉のごとき優しい雲が居て、なにからなにまでを護ってくれる狗狼が居る。これほど幸福な場所は、後にも先にも有りはしない。


「ねえ雲。お願いがあるの」

「帰って早々にかい? いいね、なにを言われるやら楽しみだね」

「今日はみんなで寝よう? 同じ部屋で、衾を寄せ合って」


 抱き合って、菫は雲の顔を見上げた。「んん?」と真意を図る声がしたものの、彼女はすぐに「いいよ」と言う。

 意外そうな声をさせたのは、狗狼だ。


「もしかすると、それは我もか」

「もちろんだよ」

「おや狗狼、断るつもりかい?」


 もういつもの調子で、雲は意地悪く言う。「ううむ」と、狗狼の唸り声は長く長く尻を伸ばした。

 けれども結局、首肯が返る。


「好きにするがいい」

「うん、好きにする」


 進ノ助の記憶は消された。菫が東谷へ戻ることは、もうどうあっても不可能だ。ならば残された時間を、もっと二人と親密に過ごしたい。

 その手始めが、三人並んで眠ることだ。


 その夜、誰も進ノ助の件には触れなかった。狗狼が用事の中途で戻っただろうことも。菫の願いがどういう意図か、二人が問うこともなかった。

 蝋燭の火を消すまで、狗狼は餅を摘み、それ以外は黙して目を瞑る。雲は菫の髪を漉き、菫は雲の爪を研ぐ。


 なにを話したか、取り留めもなく覚えていない。目に付く物を。主に狗狼を雲がからかい、菫は驚いたり感心したり。

 昨日までと、おおよそ変わらぬ夜が今日も訪れた。


 明けて、朝。大晦日、この年の最後の日。

 三人顔を突き合わせ、朝餉を終えた中で菫は告げる。昨夜あれこれ話しながらも、ずっと考えていたことを。


「狗狼。わたし決めた」

「なんだ藪から棒に」

「わたしがこの先どうするか、決めたの」


 狗狼と雲と。二人ともが、飲んでいた湯呑みを置く。揃って喉が鳴ったのは、含んでいた茶のせいか。


「どうするのだ」

「言う前に聞きたいんだけど。狗狼はわたしが、東宮に嫁げばいいって言ったよね。それは変わらない?」


 ゆくゆく帝になる、飛鳥というこの国の頂点に立つ男。条件として悪いはずがない。あとは当人の人柄だ。


「言った。そして変わらない」

「分かった。あのね、わたし自分では決められないの。だから狗狼と雲の言うことを信じる」


 勧められたときの口ぶりで、狗狼は東宮を知っているようだった。賀茂宮という人間の顔も持っているのだから、きっと間違いない。


「わたし、東宮の妻になる」


 迷う気持ちは無かった。

 大切な狗狼と雲が悲しまぬように。進ノ助のような、最悪の人間と関わらずに済むように。勧められた道を歩もうと思った。


   ―― 第二幕 終 ――

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