第36話:救いの手

 もはや、されるがままだ。諦めたわけでも、受け入れたわけでもない。男と女の力の差は、どうにもならなかった。

 抗おうにも、いくら暴れようとしても、微動だにしない。その絶望的な現実が、逃れる気力を薙ぎ倒した。


 ――こんなことなら、狗狼に殺してもらえば良かった。

 まだ帰るはずのない。ここへ来るはずもない、優しく寡黙な狗神の顔が頭に浮かぶ。


「そうだ。黙って俺の言う通りにしてりゃ、なにも困るこたあない」


 悲しくて、悔しくて、怖ろしい。食いしばった隙間から、菫は啜り泣く。

 いくら顔を背けても、進ノ助の唇からは逃れられない。せめて目に映すまいと、目を固く瞑る。


 その、直後のことだ。

 なにか破裂したような、弾け飛ぶ音が耳元で聞こえた。壺でも割ったにしては、裂ける木の悲鳴も凄まじかったが。

 続いて突風が、菫の上を通り抜ける。すると瞬間に、進ノ助の重みが消えた。


「ぃがっ!」


 重い物の叩きつけられる音がして、悲鳴が乗る。なにが起きたやら分からぬけれど、誰かが進ノ助を撥ね退けたのは間違いない。


 おそるおそる、薄目を開けた。秉燭の火が消え、辺りは暗い。

 部屋の入り口。縁の灯り取りからの光に、蹲った進ノ助が照らされる。横腹を押さえ、痛みに震えているようだ。


「菫、大事ないか」


 目を向けたのとは逆の、部屋の奥から。山手の方向で窓もない壁の側から、無事を問う声。

 吹き下ろしの凍った風を背負い、四本の脚で立つ獣が、金色の瞳を闇に輝かす。外の雪に撥ねた光が、菫の倍もありそうな巨体を黒々と浮かび上がらせた。


「……狗狼?」

「そうだ。大事ないか」


 肯定をしつつも、口早にもう一度問う。息が乱れ、口調も焦った風で荒々しい。


 ――わたしを助けに?

 この土地を守る山神だとか、まるきり狼の姿だとかは意識になかった。

 己の窮地に、駆けつけた者がある。その至極単純な事実が、熱い感情で菫の肉体を満たす。


「狗狼! 狗狼!」

「ああ、我だ」


 なにを言えば良いやら、素より多くもない語彙が残らず消え失せた。狗狼も力強く答えてくれた。のしと踏み出した足が、菫の元へ近付く。

 一歩。二歩。進む都度、人に似た格好へ変わっていく。不思議な光景だ。地面と平行に長かった身体が、縮むと同時に縦へ伸びる。

 菫の脇へ立ったときには、よく知るいつもの狗狼の姿となった。


「立てるか?」

「うん、大丈夫」


 毛むくじゃらの手が腋へ滑り込み、ひょいと持ち上げられる。足を床へ着けてもらったが、膝に力が入らない。


「あっ」

「おっと」


 腰が抜けている。へたり込みそうになったのを、狗狼はしっかりと抱きかかえた。

 温かい。互いの衣越しにも彼の熱が色濃く伝わり、全身を包んでくれる。だから渾身の力を使い、ぎゅっと抱きついた。と言ってもまだ、手が震えたままだけれど。


 ぶるぶると揺れ続ける菫の指を、狗狼は自身の目の直前へ運ぶ。なにか透かして見えでもするように、まじまじと。


「狗狼……」

「すまん」


 ほんの少し、握られた手がきつい。だが嫌だとは、欠片も感じない。むしろその痛みが、守られていると教えてくれる。

 じきに狗狼は、菫の手を顎の下で温めた。そうしてぼそぼそと呟いたが、聞き取れない。

 けれども腕に伝わった振動が、「良かった」と安堵の言葉だったように感じさせた。


「おい」


 菫を支えつつ、狗狼は進ノ助の目前へ立つ。明らかに苛々とした呼びかけ。鼻筋にも、深い皺が寄っている。

 進ノ助は答えない。聞こえるのは、呻き声だけ。壁を突き破った狗狼に、突進でもされたのだろう。まだまともに息も出来まい。


「お前に用がある。都合は聞かん、お前が菫にしたのと同じにな」


 奥衿を摘み、強引に立たせた。それでも進ノ助は屈みこもうとするが、狗狼は許さない。

 宙吊りになり、水気を帯びた嗚咽が聞こえ始める。その口からすぐ、湯呑みに一杯ほどの反吐が撒かれた。


「狗狼、やめて。わたしもう、怖いのはいや」

「案ずるな、乱暴を働くわけでない。しかし捨て置くことも出来ん。我を信じてくれるか?」


 進ノ助への憤りが、菫への言葉にも残る。あの優しい雲でさえと思うと、不安を拭えるものでない。

 だが面と向かって信じろと言われれば、ためらいながらも頷くしか選択がなかった。


「おい。こちらを見んか」


 再び呼びかけた声は、怒気が弱まっていた。菫の為に抑えているのか、それとも菫が弱めたのか。

 どちらにせよ、ほっと小さくため息が出る。嬉しいとか喜ばしいとか、とてもこの場で思えはしない。しかし菫の声が届くのは、良かったと思う。


「えっ」


 やっとのことで、進ノ助は目を開いた。汚れた口や胸はそのままに、臓腑ごと吐き出しそうな苦しい息遣いで。


「狼――山神さま?」

「そうだ、御覚山の狗神だ。これからお前の記憶を奪う。理由は言わずとも分かるな」


 今度は狗狼が、物の怪と呼ばれることは無かった。祠に飾られた絵のまま、というせいが大きいだろう。

 ただし進ノ助は火の着いたように喚き、甚だ失敬なのには変わりがない。


「ひっ、ひいぃぃぃ! やまっ、山神さま! 違う、俺は違う!」


 乱暴はしないが、対処はする。その答えが記憶を消すというのは、菫にも納得がいく。

 進ノ助には邪な思いが前面に出ているし、菫に関してだけ消すのであれば、誰も悲しまなくて済む。


 もちろんそんなことを、当の本人は知らない。が、だとしても騒ぎ過ぎだ。仮にも願いを聞いてもらおうとした相手だろうにと、菫には思える。


「違う! 殺したのは俺じゃない! 菫が悪いんだ!」

「もう黙れ」


 ――殺した?

 菫が疑問に思うのと、進ノ助が床へ落とされるのは同時だった。そも鋭い狗狼の眼差しが、針のようになっている。

 睨む先へ手が伸び、触れて。ひとつかふたつを数える間に、進ノ助は声を失った。呆けたように表情も虚ろに、幼馴染は床へ倒れ込む。

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