第42話:運命の日
訪れた、歌会の日。二十日の朝は、とても静かだった。風も、屋根から落ちる雪も、壁越しに全く気配を感じない。己の生き様を忘れたかのように。
「ねえ、雲。今日の衣は、色が違うね」
「そうだよ、あんたのこれからを決める日なんだから。ぴったりの色を着なくちゃね」
「わざわざ用意してくれたの? 何色だろう」
真っ白な単衣の上に、とても淡い色味の袿が掛けられた。光の具合い、見る角度によって、白にも桃色にも見える。
「そうだよ。用意したのはアタシじゃないけどね」
「あ、うん。でもありがとう」
いつも直接に世話を焼いてくれるのは、雲だ。彼女にどれだけ頼っているのかは、菫自身にもよく分かる。
対して毎日の食事の材料を揃えること、汚れた物を元通り綺麗にすること。持っていなかった草鞋をくれたり、薪や炭を用意したり。
そういう気付きにくい下準備は、全て狗狼がやってくれた。
「これ、紫?」
一枚ずつ、重ねるごとに濃くなっていく。三枚目の袿で、ようやく正体が知れる。
「うん。あんた、着たいって言っただろ」
「あ……」
着たいとまで言っただろうか。いや、着させてもらえるのは嬉しい。
そんな図々しい願いを。きっと口にしてもいない望みを叶えてくれる二人に、悪いと思う。ここは周辺に住む者の頼る山神の祠で、菫だけが独占して良いはずもない。
――ううん、違う。そう思うほうが、雲にも狗狼にも悪いよ。わたしは怖いんだ。返せない恩の、溜まっていくばかりなのが。
ありがとうと繰り返すのでは能が無く。厚い気持ちに向けて、薄っぺらが過ぎる。
ではなにを言えば良いか。手足や頭をどう動かせば、報いられるのか。菫の知識に、その答えはなかった。
「名前もそのまま、菫の襲さ。どうだい?」
最も濃い色となる唐衣も、どこか一歩引いたような控えめな紫色をしていた。だが袖と裾に密集した花の柄が、全体を引き締めて見える。
静かに歩めば、居ながらにして菫の咲く野を進むようだ。
「素敵。わたしなんかにもったいないけど、用意してくれたんだもの。とても嬉しいよ」
「もったいなくなんかないさ、よく似合ってる」
それだけではくすんでさえ見えた最初の袿も、こうして衿を揃えると無くてはならない。内側から順に僅かずつ濃くなる色味が、また菫の花弁のようだ。
「そうか。女房装束って、狗狼と雲に似てるんだ」
「ええ? なんだいそりゃ」
意識しなければ気付けぬ袿と、はっきりと主張する唐衣。狗狼と雲にそっくりだと思ったが、言わぬこととした。身体に近いほうを狗狼と表現するのが、はしたないように思える。
「なんでもないよ、秘密」
「なんだい、なんだい? 気になるじゃないかさ」
じゃれて腕をつつく雲だったが、だんだんとくすぐりに変わっていく。いまだうまく笑えない菫には、拷問と言えた。
「ちょっと、雲。それはずるい」
「やめてほしきゃ、白状するんだね」
笑いたくないわけでない。くすぐられれば、むずむずとこみ上げてはくるのだ。しかし伸び上がる笑いの花を、根本で断ち切ってしまう誰かが居る。
「用意が出来たなら、行くぞ」
やめて、やめない、と。あくまでじゃれ合いとしての攻防に、横槍が入った。障子越しにも呆れているのが伝わる、狗狼の声だ。
「う、うん。出来たよ」
「女の準備を急かす男があるもんかね」
「準備を急かした覚えはない」
悪態を吐きながら、雲は障子戸を開ける。するとそこには、見慣れぬ男の顔があった。とは言え知っている。
賀茂宮。狗狼の人間としての姿だ。
さらにはその足元へも、こちらは初めて見る緋色の布が敷かれていた。両腕を広げたほどの幅が土間を抜け、表の戸を越えて外まで。
「布を土に敷くなんて、どこを歩けばいいの?」
「これを踏むのだ。帝や東宮の歩む場所には、よく敷いてある」
「贅沢で目が潰れそうね」
物は大切にしろと教わった。布はおろか、薦や縄の端切れでさえ、粗末にすれば化けて出ると脅かされもした。
けれど御所ではそれが当たり前と言うなら、否は無い。覚悟の為に思いきり息を吸い、踏みしめる。
不思議な感触だ。布の厚さの分、ほんの少し沈むのが、宙を歩む心地にさせる。
だが、温かい。土間へ降りても、雪の上まで出ても。足を藁で包んだように。
「眩しい――」
視界を一面、銀が占めた。夜に降ったささやかな雪が、乱れた雪の野を完全な平面に戻している。
陽の光を千にも万にも砕き、きらきらと輝く。それはまるで菫が、陽の住人になったと錯覚させた。
眩んだ目をしばたたかせ、しかと前を向く。敷物の先へ、輿が見えた。突き出た担ぎ棒は黒く、屋形は草色。下がる御簾は、紫の糸で縫われている。
色違いで、都合ふたつ。一瞬前には、たしかに無かった。
ましてやそれぞれの脇に跪く、屈強そうな十六人の男たちなど。冷たい雪上へ座るのに、微動だにしない。
「この人たち……人間?」
「よく分かったな、我の拵えた人形だ。お前と我の乗る輿を運ぶ。東宮と会う以上、賀茂宮ゆかりの姫ということになるのでな」
初耳だが、やはりそうしなければ具合いが悪いのだろう。断る理由にはならない。
「わたしがお姫さまね。嘘くさいけど、東宮さまも知らないの?」
「いや、
それが東宮の名前らしい。胸に字を思い浮かべ、大きく吸った息と共に飲み込む。
「よし。狗狼、行こう」
「フッ。戦に向かうような言い草だな」
「あっ、ごめんなさい」
言われてみれば、両手を拳に握りしめていた。血の気が引いて、青褪めるほど。これでは妻にしてもらえないかもと、慌てて力を抜く。
「気負うな。いつものお前でいい」
「そんなこと言われても」
いつもの自分がどんなものか、己では分からぬものだ。それになんとしても、東宮に気に入られねばならない。
苦情には答えず、狗狼は先に輿へ乗り込む。人形の男が、御簾を静かに下ろした。
「行っておいで、あんたなら大丈夫さ。どうなったってね」
「うん、行ってくるね」
残る輿へ菫が乗ると、雲が御簾を下ろしてくれる。透けて見える向こうで、彼女はいつも通りの優しい笑みで手を振った。
「えいや」
「そいや」
ゆらり。男たちの揃った掛け声で、輿が持ち上がる。不自然なまでに傾きがなく、すうっと滑るように進み始めた。
手を振り続けられる雲が見えなくなるまで、菫も手を振り続ける。
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