第33話:初めての町

 山を下るのには、南の斜面を使った。祠まで登る頻度の多い分、くっきりと山道が出来上がっているからだ。

 途中から進ノ助は、幾らか自分で足を動かし始めた。傷の痛みもさることながら、やはり雲への恐怖が身体を強張らせるらしい。その怯える口が、こんな有り様で親父に会えないと言う。ゆえに送り先が、南里しか無くなった。


「ねえ、着いたよ。どこへ行けばいいの」


 雪のない時期に自分ひとりであれば、菫の足は半刻ほどで山を下りる。それがもう、お天道さまはてっぺんを過ぎていた。

 朝餉を食べ損ねて来たことを考えると、四、五倍もかかったことになる。


「お、乙名のところ」

「だから、それがどこ」


 東西に真っ直ぐ、街道が走る。南里は都を前にして、最後の宿場町だ。御覚山を下りればちょうど真ん中へ出る格好になり、気の早い宿が客引き合戦をする只中へ立つこととなった。

 右を見れば、茶店と馬宿場。左を見ても、蕎麦屋と湯屋。旅人を休ます店ばかりが、対面にずらりと並ぶ。


「おや、どこの姫さまかね。お連れさんとはぐれたのかい?」

「おいおい、汚い手で触れるんじゃないよ。あんたんとこの稼ぎじゃ、十年かかっても買えないおべべだよ」


 近くに居た中年の男が寄ってくると、反対に居たもっと歳上そうな女が口を挟む。なんのことはない、どちらも客引きで、高そうな衣の菫を引き込もうというのだろう。


「あの。乙名さんのところへ行きたいの」


 進ノ助に聞くよりは、まともな回答があるはず。大人を信じて聞いたのだが、二人は揃って舌打ちを返した。


「なんだ、大店の手付きかい。紛らわしい」

「よく見りゃもう一人は、小汚い怪我人じゃないか。関わらなくて良かったよ」


 道を尋ねただけで、なぜそんな態度をされるのか。胸の奥が、きゅっと縮こまる。

 それでも男のほうが、「あっちだ」と指を向けてくれた。萎んだ心根では言葉が出ず、どうにか頭を下げて示す。


「こ、ここだ」


 あっち、にも多くの店が並ぶ。ともあれ歩くと、進ノ助が声を絞り出す。

 見ればそこは、大きな旅籠はたごだ。入り口の引き戸は六枚も連なり、開け放してある。さらにその左右へも、同じだけの壁が続く。


 辺りを探しても、客引きは居ないらしい。真ん中へ下がる提灯の奥、板間に男が見えた。もちろんこの旅籠の人間に違いない。文机に向かい、なにやら書き付けている様子だ。

 女が肩を貸し、男が足を引き摺って歩く。そんな二人連れが覗いては、さぞあちらも気がかりなのだろう。旅籠の男は手を止め、表へ出てくる。


「どうしたね、わけ有りのようだが」

「ええと……」


 前置く空気は一切なく、訝しむ表情も隠さず、男は問う。それで初めて、菫は気付いた。なぜ怪我をしたか、どこから来たか。正直には話せないことを。


「ん、進ノ助じゃないのか。そうだろう、東谷の進ノ助だろう?」

「え、ええ。そうなの。山で怪我をしてしまって、ここへ」


 男は無遠慮に、進ノ助の顔を覗きこんだ。それで何者かを知り、菫の言葉で脚の怪我に顔を顰める。


「こりゃひどい。あんたが連れて下りてくれたのかい? どこの御御料おごりょうさんか知らないけど、礼を言わせていただくよ」


 御御料さんとは、たしか公家の女を指す言葉だ。東谷の纏め役が使っていた。そんなのではないと首を振るものの、男はもう「誰か手を貸しておくれ!」と人を呼んでいる。

 助かった。どうやら事情を説明する手間が省けた。


 傷口には、進ノ助の手拭いを結んである。真っ赤に染まったが、滴りまではしなかった。男はそれも自分の目でたしかめ、勤め人らしい男の子に冷たい水を持って来させる。


 ――良かった、これで帰れる。

 新しい手拭いですっかりと綺麗にしてもらい、進ノ助は旅籠の中へ連れ込まれた。

 ようやく縁が切れると、ほっと息を吐く。だがよく考えれば、どこへ帰れるのか。当ては当然に山神の祠しかない。


 ――わたし、雲にひどいって言った。

 いや思い返しても、ひどいとは思う。いま生きて動いているからと、進ノ助の砕ける光景が頭を離れはしなかった。

 あれは菫の為に憤った結果だ、と。祠からここまで、理解したふりを何度も試みた。しかし無理だ。進ノ助の行いがどうこうという、理屈の部分は問題にならない。あのときの雲が、怖ろしくて堪らないのだ。


 狗狼も雲も、人間を特別とは考えない。人も猪も、鳥も虫も魚も、草木さえも。それぞれ山の中にある、自然の一つとしか見ていないと思う。

 同じ屋根の下で寝起きして、同じ境地には至れない。が、大まかには間違いないはずだ。


 ――なのにどうして、わたしだけ特別に扱ってくれるの?

 生け贄にされたのは自分のせいだからと、狗狼は言った。けれどもそれは、違うように感じる。

 優しくされることに甘え、今日まで曖昧に済ませてしまった。悔やむ日が来るとは、思っても見なかった。これほど不安に感じるとは、予想だにしなかった。


 ――わたしの帰る場所は……。

 すぐにでも、旅籠の前から退くべきだ。分かっているのに、足が動かない。男と女と数人が進ノ助を奥へ連れ去り、最初に話した男が「ふう」とひと息入れるまで。菫はじっと立ち尽くす。


「おっと、放っちまってて申しわけない。あんたも疲れたでしょう。足を洗って、茶の一杯でも飲んでいきなさいよ」


 三十過ぎくらいの生真面目そうな男。薄い紅の直垂ひたたれは丁寧に直しが重ねられ、堅実そうに見える。これが乙名とすれば、随分と若い。

 行き先のない菫には、頷く以外の返答がなかった。

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