第32話:祠を後に
「ひどい、か。アタシはアタシで、こうするだけの理由があった。でもあんたがそう言うのを、おかしいとは思わないよ。面白いとは思うけどね」
「面白いなんて」
言葉の通りに、雲は微笑む。いつも菫に向けてくれた、親しい表情。そこに居るのは紛れもなく、菫の慕う悪戯好きの女性だ。
――なんで笑えるの。
いったい彼女は、どうしてしまったのか。菫の憧れた優しい女性は、どこへ行ったのか。
疑問ばかりが胸に溢れて、喉を押し潰そうとする。
「わたしは苦しいよ」
「そうかい。あんたがそこまで気に病むとは思わなかった。それは謝るよ」
今度は悲しそうに、目を伏せた。本当にすまないと思ってくれている、と。少なくとも菫にはそう見える。
「それならどうするかねえ」
「どうって、どうにもならないじゃない。いくら雲だって、起きたことを無かったとは出来ないでしょ?」
散らばる氷の破片を見やる雲は、やはり感情に乏しい。菫がうるさく言うから考えるだけで、もう短刀で切られたのも忘れているかのようだ。
「それは出来ないねえ。でも、似たようなことは出来るかも」
「似たような?」
またなにを言い出したか、意味を測りかねた。なぜだか雲の手は、痛々しい己の傷をなぞっていく。
長さは三寸ほど。大量の流血が深さを物語る。致命傷には程遠いけれど、軽くはない。そんな傷が、しなやかな指の通り過ぎた後に消え失せていた。
「き、傷を治せるの?」
絹の敷物を新品に戻したのと同じに。いやあれは、狗狼の仕業と聞いたか。
ともかく傷を治す尋常でない力があるのなら、進ノ助も元通りになるかもしれない。切り傷とばらばらになったのとでは、桁が違うけれども。
「いいや、アタシにそんな真似は出来ないよ。でもまあ、その子を生きて動けるようには出来る。あんたが望むならね」
進ノ助を生き返らすことが、菫の望み。念を押され、戸惑った。だがやはり、死んでいてほしくはない。
菫の目の前で、雲の手によって、死んだ事実を残してくれるな。というのが、おそらく正しい。
「……うん、お願い」
幾ばくかの逡巡を呑み込み、頼む。すると雲は、氷の欠片の一つを持ち上げた。それを軽く放り投げ、白い息を吹きかける。
呆気ない。吹雪が一か所へ溜まったと思えば、すぐに掻き消えた。そこへ仰向けに進ノ助が倒れている。
「あ、あうあう――」
砕ける前の恐怖に満ちた顔のまま、目が見開かれている。がくがくと震える顎が、一応の声も発した。
即ち、生きている。
「進ノ助」
「ひっ!」
二歩の距離も、駆け寄る気にはなれない。声をかけると、びくっと慄いて悲鳴を上げた。
どうしたのかと尋ねるのも白々しい。落ち着かせようと手を伸ばせば、仰け反って逃れようとする。
「自分が凍りついて、砕けるまでを覚えてるはずさ。しばらくは怯えて過ごすことになるだろうね」
「そっか……」
生きて動く進ノ助。やはり嬉しいとは思えない。ただし放ってもおけなかった。ここで凍死されては、生き返らせた意味が分からなくなる。
「村まで送ってあげられないかな」
「アタシにそんな力はないよ。祠を離れることも出来ない。狗狼の留守を守る役目があるんでね」
雲が言うなら、そうなのだろう。出来るのを隠したりはしないはずだ。
ならば方法は一つしかあるまい。
「じゃあ、わたしが一緒に下りる」
「その子を生かしたいなら、そうなるだろうね」
また。
生かしたいなどと、思っていないのだ。どうしてそんな意地悪ばかりを言うのか、雲を詰ってしまいそうになる。
代わりにぶんぶんと、かぶりを振った。そめてそれくらいの否定はしておきたかった。
「行っておいで。狗狼が帰ったら、なにがあったかは話しとくから」
「うん。ごめんね」
「んん? なにがごめんなんだい。謝るのはアタシだろうさ」
進ノ助に肩を貸し、立ち上がらせる。その様子を、雲は眺めた。苦虫を噛み潰しながら、無理やりに笑ったような顔で。
「雲は頼みを聞いてくれた。なのにわたし、ありがとうって言えないの。今は」
「ああ、寂しくて泣いちまいそうだよ」
「嘘ばっかり」
進ノ助は抵抗しなかった。びくびくと、ときに身体を固くするものの「大丈夫だから」と言えば暴れない。
ただ、怪我をしているらしい。雲が切られたのと同じ脚を。
「菫」
半ば引き摺るようにして、進ノ助を運ぶ。地面が粉雪に覆われてなければ、すぐに血塗れだったろう。
あっという間に、汗が噴き出す。苦心する背中へ、雲の声がかかった。下る道を、振り返らずに答える。
「なに?」
「あんたがどう思ってるか、アタシには分かんないけどさ。アタシはあんたが大好きだよ。それだけは忘れないどくれ」
わたしも、と。やはり今は言えそうにない。だからせめて、振り返って見せた。
「行ってくるね」
たおやかに袖を押さえ、手を振る雲が遠く見えた。
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