第31話:決裂

「ううっ――」


 苦しげに、進ノ助の顔が紅潮していく。握った短刀がいつか、ぽとりと雪原へ落ちた。雲はそれを空いたほうの手で指さし、そのまま宙へ、つうっと条を描く。

 すると短刀も、指された通り浮き上がった。行き先は、進ノ助の見る先。「ふうぅっ」と、雲の息が浴びせられた。


「くっ、うっ」


 意味を成さない声で、進ノ助は抵抗を続けた。だが次第に白く染まっていく短刀を見て、見開かれた眼が恐怖の色に染まりゆく。

 無粋な鋼の刃は、一面を霜に覆われた。けれどそれでは留まらず、表面を生き物のように氷が這う。見る間に厚みも増し、氷の塊と化すには十を数える暇も必要なかった。


「さあ、見てなよ」


 雲の声に、感情が見えない。傷付けられて怒っているわけでも、人間をいたぶって悦ぶでもなく。

 いや顔色の豊かな彼女のことだ。なにも思っていないなどと、それこそあり得ない。

 なおも気色を隠したまま、消炭色の指先が氷を弾く。


「短刀が……」


 離れて見る菫も、その光景に息を呑む。

 悪ふざけ程度の衝撃を受けた氷は、小さく硬い悲鳴を上げて崩れた。砂粒ほどの大きさが、きらきらと光って雪へ落ちる。ひと粒残らず消えた後に、短刀の姿も無かった。


「鋼だろうとなんだろうと、凍っちまえばこの通りだ。次はお前の身体で試してやるからね」

「ひ、ひぃっ!」


 がくがくと震える進ノ助の手が、雲の拘束を外すべくもがく。しかし叩こうと殴ろうと引っ掻こうと、柔らかいはずの彼女の肌に、なんら痕跡も残らない。


「雲、そんなことしたら」

「うん? なにかまずいのかい。こいつはあんたを、ひどい目に遭わせた。ただそれだけで、アタシには十分過ぎる。そのうえ、祟りを受けたいと自分で言ったんだよ」


 仮に腕や脚の一本でも、短刀と同じ運命を辿るとしたら。それは命に関わる大怪我だ。

 そこまでしなくとも、と。弱い制止の声は、正論に阻まれた。


「そうだけど……」


 あのときは、菫も死を覚悟した。狗狼と雲が助けてくれなければ、理由は違ってもやはり死んでいた。

 そして進ノ助は、そんな雲を短刀で切りつけた。なんらかの報いは当然なのかもしれない。


 ――でも。

 幼馴染という言葉すら、気持ちが悪い。もう関わらないでほしい。そういう思いに間違いないが、殺したいとも思わない。

 今後決して接することのないどこかで、好きにしていてくれれば。菫の正直なところはそうだ。


 けれども通らぬ道理なのかも。と思うと、主張出来ない。姉のごとき雲なら、察してくれはしないか。甘えた希望を眼差しに篭める。

 だが――。


「じゃあね」


 ざっくばらんに、別れの言葉が告げられた。雲は「はあああっ」と、白い息に進ノ助を包み込む。


「あっ!」


 菫の声は雲を止めるにも、助命を願うにも間に合わない。突き出した手も、届くはずがなかった。

 すぐに吹いた風が、小さな雪雲を散らす。果たして雲の手に握られたのは、もはや進ノ助の形をした氷塊だ。


 まだ間に合うかもしれない。冬を司る雲なら、ただ凍っただけなら。融かしてやりさえすれば、きっと元通りだ。

 という望みも、菫は口にすることが無かった。それくらい雲の動作に、ためらいや迷いが見えない。


 すらと伸びた雲の手が、氷塊を離す。もちろん、当然に、言わずもがな、氷塊は落下した。

 積もったばかりの粉雪に触れ、進ノ助であったそれ・・は砕ける。


「進ノ助!」


 遅い。わざと間に合わぬようにしたのかと、自身で疑うくらいに遅い。菫はようやく、幼馴染の元へ駆け寄る。雲に言われたのは、刃物が危ないからだ。それももう無いというのに。


「進ノ助! これ進ノ助なんでしょ!?」


 叫んだ。散らばった拳ほどの氷を幾つか拾い、光に透かそうとするが叶わなかった。怖ろしくて、手が震えてしまう。透明な氷の中へ、進ノ助の欠片があると確かめてどうするのか。

 持ち上げようとした手を、力なく雪に沈める。


「ねえ雲、どうしてこんなことを」

「どうしてって、それだけのことをしただろうさ」


 へたり込み、間近の雲を見上げる。いつもの彼女なら、菫の視線と同じにしゃがんでくれるはずだ。

 しかし今は、瞳だけが動いて見下ろされる。


「そうだよ、進ノ助はひどいよ。わたしは会いたくなかった、考えたくもなかった。なのにこんなことしたら、もう忘れられないよ」

「ああ、そうだろうね」


 抑揚のない声はなんだろう。不思議に思うが、考える気力が続かない。

 どうして良いやら分からぬ手が勝手に動き、触れた物を構わず投げ捨てる。それは雪で、もしかすると氷が混じった。


「ひどいよ。わたしはもう、怖いのは嫌なのに……」

「分かるよ。だから言ってるだろ、あんたは狗狼に記憶を消してもらえばいい」


 ――そうする為に進ノ助を?

 菫を案じてなのは分かる。だからと強引にその通りさせる手段として、利用したのか。


 ――ひどい。ひどい。ひどい。


「ひどいよ雲! そんなの、わたしは望んでない!」


 掴んだ氷の塊を投げつける。と、ちょうど雲の傷に当たり、ずるりと滑り落ちた。

 死を目の当たりにしての、錯乱ではあったろう。そう自覚のあるところからすると、全くの正気かもしれない。

 ただ誰かに告白すれば言いわけとしか聞こえまいが、はっきりと菫に分かることは一つだけだ。


 なにが起こっているか、分からない。

 理解の足が、まるで追い付いていなかった。進ノ助も雲も、考える時間を与えてくれなかった。わけの分からぬ間に、取り返しのつかないことが起こってしまった。

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