第30話:荒れる冬の雲

「菫の代わりに弓をね。うん、たいそう大事にしてたんだろうさ」


 雲はただの草鞋を履いて、雪を踏む。聞いたことを繰り返し、たしかにと頷きながら。


「雪がやんで、すぐに来たのは見上げたもんだ。積もったのが消えて無くなったわけでもないのにね」

「そ、そうだ。迎えに来たんだ」


 無人の祠に菫だけでなく、見たこともない風体の女が居る。しかも粉雪の上を、ほんの少しも沈むことなく。

 訝しむ進ノ助の手が、菫の肩から離れた。二歩、三歩と。小さな歩幅で、後退る。


「人間ってのは、面白いことを言うね」


 切れ長の眼が、細く弧を描く。口角も上がって、文句の付けようのない、美しい笑み。

 だのに、冷たい。辺り一面を埋め尽くす、雪の平原と比べてなお。


「ええ、と……」

「だってそうだろう。生け贄になったから、菫のおかげだって? この子がそうしてくれって頼んだのかい?」


 面白いと言った通りに、雲は笑い出すのを堪えながら話す。それでもときに、くくっと声を詰まらせた。


「村の連中は許してないけど、俺が一緒に居てやる? いい男気だねえ。いい脅し文句、とも思うけどね」

「お、俺は。俺はそんなつもりじゃない」

「そうだろうさ。分かるよ、あんたの気持ち」


 雲が長い脚で一歩を進むと、雪に足をとられる進ノ助は慌てて三歩をさがる。彼我の距離は縮まらず、段々と山を下りるほうへ動いた。

 脇を通り過ぎた雲を、菫は固唾を飲んで見送るしか出来ない。


「あんたは菫って名前の。女って種類の、ただの物が欲しいのさ」

「そんなわけ――」

「あるね」


 進ノ助が、鳥居の下をくぐった。そんなわけない、という否定を遮った雲は唇を窄め、細く息を吹き付ける。

 それは見目にも白い吹雪となって、幼馴染の巻いた簑を弾き飛ばした。


「物の怪かっ! お前が菫を閉じ込めてたんだな!」

「あんた、本当に面白いねえ。冬を司る女を捕まえて、物の怪とはね」


 進ノ助が尻もちをついたところで、雲は吹雪を収めた。冬山にも慣れた猟師の身体が、がたがた震えるのは寒さのせいか、それとも。


「アタシは冬雲ふゆくもだよ。こう見えて歳神の娘でね、理由もなく人間を傷付けることは出来ないから安心しな」

「もっ物の怪が謀るな」


 何度か転げながら、進ノ助は立ち上がる。落ち着かない指先で、腰から短刀を抜きもした。猪の腑分けもこなす刃は、短くとも厚く鋭い。


「雲……」


 ぬくい衾に包まっても、囲炉裏や火鉢にどれだけ当たっても、彼女の手は氷のように冷たかった。

 雲が冬の化身と、菫もそんな気はしていた。いや正確には昨日、狗狼に聞いた話だ。そのものでなくとも、雪や氷に纏わる存在だろうと。


「大丈夫だよ。でも刃物が危ないからね、菫はそこに居るんだよ」

「う、うん」


 無防備に振り返って、接してきた優しい姉の顔が笑う。

 とても心安らぐ、心強い言葉。争いの気配に顔を顰めながら、菫は必死に目を逸らすまいとした。


「進ノ助だったかねえ。アタシも偉そうに言って、あんたの腹ん中を知れるわけじゃない。人間と同じに、言葉で聞くしかないのさ」

「う、うるさい。近寄るな!」


 腹の前へ構えた短刀を、進ノ助は威嚇に揺する。けれども全く意に介した風も見せず、雲は真っ白な襲を軽やかに雪へ引き摺った。


「そう気張るんじゃないよ。アタシの聞きたいのは、たった一つ。あんたの携えた、たかがあの弓ひとつ。菫と釣り合うって、本気で考えてるのかい?」


 五歩を残し、立ち止まる雲。見上げる進ノ助は、悪鬼魍魎と信じて疑わぬのだろう。手許を震わせながらも、短刀を突きつける。


「釣り合わなくたって、他に出せる物なんかない。貧乏人になにをさせようってんだ」

「そうかい? あんたは持ってなくても、親父さんにはなにかあるだろう。村の連中も、金目の物の一つや二つあるんじゃないかい?」

「馬鹿言うな。そんなのが俺の自由になるわけねえだろ!」


 雲の言うように、それぞれの家へ一つくらいは大切な物がある。都へでも持って行けば、取るに足らぬくだらない物だが。

 大猪の牙とか、巨大な鹿の角とか、そういう物を進ノ助が持ち出したとしたら。おそらくは袋叩きだ。


「ほらね」


 そんな危険を冒せるかと喚いた進ノ助を、雲は見下した視線を浴びせる。吐いた言葉も、鋭利な氷の礫のようだ。


「ほら、って」

「分かってんのかい。菫はお前たちに、自分の一生を持って行かれたんだよ。アタシらが衣や飯を世話しなきゃ、この先何十年の命を散らしてたんだ。それをお前は、形のある物さえ都合する気がないって言うんだね」


 深く思い遣ってくれる雲の言葉にも、菫は耳を塞ぎたくなってしまう。しかしそれだけは駄目だ、と。脚に爪を立てて堪える。


「うるさいうるさい! 誰にだって、出来ることと出来ないことがあらあ。俺は菫を迎えに来た。あったことの償いは、俺が幸せにしてやれば帳消しなんだ!」


 地団駄を踏み、進ノ助は前に出る。雪に阻まれて、全く勢いに欠けるが。対する雲は疲れた風に「ふうっ」とため息を吐いた。


「度し難いよ。お前に菫を幸せになんか、逆立ちしたって無理な話だ。この子にも自分の気持ちってのがあると、夢にも思っちゃいないんだから」

「そんなこと知ってらあ!」


 もう帰れと、雲は突き放そうとする。逆上した進ノ助は、普段の扱いを忘れたように、短刀を出鱈目に振り回した。


「痛っ……」


 立ちはだかる者と、闇雲に突き進む者。ゆっくりであっても、やがて両者は接する。

 振り回された短刀は、雪の襲を切り裂いた。雲の美しい脚が、人間と同じ真っ赤な血に染まる。


「雲!」

「ああ、菫。大丈夫だよ、だから決してそこを動くんじゃないよ」


 余裕ぶって、雲は身体ごと振り向いた。進ノ助は見せつけられた背中に、なおも刃を振り翳す。


「へ、へへ。物の怪め、退治してやる!」

「きゃあ!」


 叫んだのは菫だ。もう、見ていられなかった。思わず顔を覆い、俯いてしまう。だがすぐに聞こえた呻き声は、男の物だ。


「く、くそぅ」

「馬鹿だねえ。アタシは盗っ人を勧めたわけじゃない。それくらいの覚悟はないのかって、ものの喩えだよ。わざわざ正解を教えてやったってのにさ」


 おそるおそる、顔を上げてみた。視界を塞ぐ己の指を、一本ずつ引き剥がす。と、雲は片手で進ノ助の顎を捕らえ、宙吊りにしているところだ。


「こう見えて歳神の娘でね、理由もなく人間を傷付けられない。でもお前、祟りって知ってるかい?」


 細い渓谷を吹き抜ける寒風のごとく、雲の声は低く響いた。

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