第34話:乙名の芸
四、五歩で壁に突き当たる小さな板間に、小さな囲炉裏。誰かの私室なのか、贅沢なものだ。進ノ助の寝かされた部屋へ、菫も通された。
雪に隠れた石が、足の裏をたくさん傷付けていた。熱い湯桶で洗ったのが、まだじんじんと滲みる。
「私は南里の乙名をしているんだよ。進ノ助がまだ、よちよち歩きのころから知っていてね。兄貴と慕ってくれるのはいいが、無茶ばかりするクソガキだった」
向かい合って座る乙名の丁寧な口調に、ぶっきらぼうな言い草が混ぜられる。それだけ仲が良いということだろう。
それは今もか、と笑声が零れた。どっしりと縦に長い湯呑みが、ずずと啜られる。
「これもどうせ、なにか進ノ助がやらかしたんだろう?」
問われても答えられない。間が持たず、床に置かれた同じ格好の湯呑みを手に取った。焙じた柿の葉の香ばしい匂いが、鼻から胸へ染み渡る。
「なるほどね。まあ、ゆっくりしておいきなさい」
どう納得したものか、乙名は頷いて立ち上がった。驚く菫に、にこりと微笑み、部屋を出ようとする。
「あ、あの。どうして」
「どうして?」
「どうして……なにも聞かないの?」
菫はまだ、名も聞かれていない。聞かれても答えて良いか迷うところだが、さすがに通るまいと覚悟をしていた。
質の良い衣を着た素性の知れぬ女と、幼少から知る進ノ助。乙名とすれば、怪我の原因くらいは聞くのが当然だろうに。
「聞いてほしいのなら聞くよ?」
「…………いえ」
「うん、そうだろうと思った」
「でも」
枝や岩に引っ掛けた傷でないのは、分かっているはずだ。ならばそれは、連れて来た女の仕業かもしれない。菫なら絶対に、可能性の一つとして疑う。
「見てれば分かる、あんたがやったんじゃない」
「そんな。なんで分かるの」
「あんた、嘘の吐けない口だろう? 分かるよ、あんたがやったんじゃない。けど、その場には居た」
ずばり言われ、反射的に頷いてしまった。乙名はそれを、噴き出して笑う。
「ぷふっ。あっはっはっは、そういうところだよ。まあ私も客商売の身だ、わけ有りでもよほどでなければ知らぬふりをする。どの客がよほどなのか、見極めるのも仕事でね」
だから分かる。そう言われても、俄には信じられない。まさかここは、狗狼に関わりのある場所か。それとも雲の見せる幻か。
首すじに爪を立て、つねってみる。が、分からない。饅頭の味さえ感じさす幻が、そんなことで見極められるはずもなかった。
「狐につままれた心地かい? いいね、今度これを芸として客に披露しようか」
人の悪い芸だ。人寄せになるなら好きにすれば良いけれど、菫はそれどころでない。
「そうだな。あんたはここ最近、お公家さまに召し上げられた女房かなにかだ。もしかすると、奥方になることを約束されてるのかもしれない。進ノ助はそのあんたに、横恋慕したんだろう。よせばいいのに我を張って、この有り様だ」
ぎくり。強張って、肩が揺れる。取り乱さぬよう、身構えていたのに。
乙名の推測は、事実と違う。けれども片鱗を捉えている。山神の祠に歳神の娘などと、特異な条件を抜けば概ね正解と言ってもいい。
「当たらずとも遠からじ、かな。披露するにはもう少しだね。心配しなくとも、役人に届けたりはしないよ。とっ捕まるのは進ノ助のほうだろうから」
相手が本当に公家ならば、そうだろう。いや菫を好く物好きは進ノ助だけで、横恋慕ではない。ならば相手と言うのもおかしいが。
「それにあんたは放っときゃいいのに、進ノ助を庇ってここまで連れてきてくれた。仇で返すことはしない」
「すみません……」
ここで謝るのは、不条理を押し付けて申しわけない。と、感じさせるだろう。
実際は、本当のことを話せない不甲斐なさを謝った。そうすることでまた、罪悪感が増したけれど。
「いやいや、すまないのはこちらだよ。正直を言えば、最初はあんたを疑った。でも違うと分かった。進ノ助は肝心の傷以外、どこにも怪我がない。あんたとやり合ったなら、お互いに傷だらけのはずだよ」
「表で傷を見たのはそれで?」
少し変だなとは思っていた。乙名は傷に気付くなり、その場で検めた。どうせ連れ込むつもりだったのだろうから、屋根の下へ入れてからで良いはずだ。
「ああ、そうだよ。だからあんたは悪くない。これから私は、仕事に戻るからね。あんたも用がなけりゃ、そっと出ておいきよ。あんたは今日、うちの旅籠に来なかった」
役人が動いたとしたら、そんな理屈は通じまい。菫に声をかけた客引きが居たし、旅籠の前で見ていた者も一人や二人でなかった。
「うちの者もしばらくは近付けないから、用があるなら居てくれてもいい。文句を言い足りないとかね」
言い捨てて逃げるように、乙名は部屋を出た。真意は言った反対で、横恋慕を受け入れるならこの部屋を使えと。文字通りの下世話を利かしているらしい。
さすが進ノ助の兄貴分だ。勘弁してという思いが、少し冷静さを取り戻させた。
「いえそれは。でも、なんでそこまでしてくれるの?」
縁を去り行く背中が止まる。しかし振り返ることはない。そのまま「なんで?」と考え込む。
首を傾げる方向が、右と左に二往復した。それでようやく「私はね」と声が続く。
「二年前に跡目を継いだんだ、親父さまが病でぽっくりとね。若すぎる乙名だって、あんたも思ったろう?」
返答に困る。うんと声に出すのは嫌で、思わなかったと嘘を吐きたくもない。だから背を向けられているのを良いことに、頷いて示した。
「――あんた、いま頷いたろ?」
「えっ」
「あはは、背中に目はないよ。でもなんとなく分かる。声を出そうとしてやめて、その後の間でね」
東谷の面々や、雲とは違った意味で怖ろしい。こんなでは声を出すどころか、下手に身動ぎも出来たものでない。
「親父さまは名実ともに、南里の主って人だった。町の誰もが、頼ってきてくれた。私のことまで、若旦那って持て囃してくれたよ。でもね、亡くなった途端、手の平を返された」
「なにかされたの?」
親しかった町の人々。手の平を返されたと聞いて、道を尋ねたときの冷たい態度が思い出される。
ひとごとと思えず、きゅっと胸が苦しくなった。
「勤め人が何人か引き抜かれて、そのうちの誰かは銭まで持ち逃げしたかな。証拠はないけれどね」
乙名のひと言で、進ノ助の手当ては速やかに済まされた。結束しているなと少なからず感心もした。
そんな仲間がよそへ移るとは、どんな思いか。言葉を区切った、深い深いため息が物語る。
「まあそれは大したことじゃない、問題は乙名さ。お上は早く跡継ぎを決めろとせっつくし、町の連中は私で務まるのかと文句を言う。では誰か代わってくれと言えば、みんな明後日を向くんだよ」
「そんな勝手な」
「そうだね、でもよくあることだ。私は覚悟を決めるしかなかった。残ってくれた人たちと、妻と子の他に味方はない。自分のやるべきことは誰がなんと言おうとやるし、誰が咎めても味方は守る」
言うだけなら簡単だが、途轍もない覚悟だと思う。いくら大きな所帯があっても、他の全員に徒党を組まれれば勝ち目がない。
幾多の荒波をどうにか乗り越えて、今という時間を持っている。進ノ助は、そういう乙名の味方とされているらしい。
「理屈じゃない、のね」
「そうだよ。私は私の味方で居てくれる者を、全力で守る。なにがあってもだ。あんたの件は、進ノ助が阿呆すぎるけれどね」
種明かしはこんなところだ、と乙名は去った。長い縁の突き当たりに、眠ってしまった進ノ助と菫を置いて。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます