第27話:祠の在り処

 祠に彼の居らぬ日は珍しくない。感覚的に言えば、きっと居る日のほうが少ないだろう。

 また居ないとなれば、いつもどこへ行ったか定かでない。一度など雲の提案で、後をつけたくらいだ。


 それを今日に限って、主上のところへ行くと。細かく聞いてもどこだか分かるまいが、少なくとも御覚山ではないのだろう。

 狗狼の出て行った表の戸から、菫はしばらく目を離せなかった。


「どうかしたかい? 腹が減ったなら、こし汁か餅があるよ。なんなら汁に餅を入れてもいい」

「なんでわたしが戸を食べると思ってるの?」

「よだれを垂らしてたからさ」


 そんなはずはない。菫が「えっ本当に」と反応をして、「冗談だよ」と雲が返す。そういう言葉遊びだ。

 分かっていて思惑に乗ることも出来た。たとえば昨日の菫なら、そうしたはず。


 しかし、今日は出来ない。常に抱える怯えと違う、薄暗い気持ちが胸にあった。なんとなくであれば、その正体も分かる。

 菫は、寂しかった。


「ほんとにどうした? 言ってごらんよ」

「ううん。昨日、雲の言ったことを考えてただけ」


 そう言うと、雲もまた表の戸へ目を向ける。ちらと様子見をする菫の視線に気付いたはずだが、物憂げな微笑のまま瞳を動かさない。


「焦らすつもりはないんだよ。あんたに気付かない選択肢もあるかもしれないって、それだけさ」

「うん。ありがとう」


 今日の習いごとの準備をしてくると、雲は先に部屋へ戻った。閉じられた障子戸を背に、菫は縁へ座る。

 東谷から追い出され、いつか祠も出て行かねばならない。すると自分は何者だろう、と。己の身の虚しさが重く伸しかかった。


 ――ああ、そっか。そういう意味なんだ。

 以前、狗狼が言っていた。東谷でしか生きたことのない菫がその記憶を消せば、後に残るのはいったい誰なのか。


 自分が菫という個人と分かるのは、他の誰かが呼んでくれるからだ。その相手が誰もなく、呼ばれた記憶も失くす。すると菫が何者であろうと、誰にも関わりがない。己自身にもだ。

 そんな人間は、果たして生きていると言えるのか。


「菫。琴の用意が出来たけど、今日はやめとくかい?」

「ううん、やる。でも一つだけ、先に聞いてもいい?」

「もちろんさ」


 振り返ると、障子戸が音もなく開いていた。部屋の中から声をかけた雲を、肩越しに見上げる。


「ここは、どこ?」

「どういう意味だい? 御覚山の山神の祠、ってんじゃないんだろ」

「わたしは今、どこに居るのかって思ったの。この祠は古いはずなのに、わたしの目には新しく見える」


 狗狼は神さま。雲もそれに準ずるなにか。すると祠のある場所は、人間の住む世界とは違う。

 だからこそ、先達が居ないのだと思った。でなければ、ずっと居たいと願った誰かが居るはずだ。


「……ここは人間の言葉で言えば、あの世さ。だからあんたの姿も、他の人間からは見えやしない」

「死んだわけじゃないんだよね?」

「そうだよ。その長持へ投げ込まれたとき、狗狼がこっちへ呼んだのさ。ただそれだけで、あんたは歴と生きてる」


 死ねば、ここへ留まれるのだろうか。

 頼んでも聞き入れられまい。だがそれが菫の願いに最も近い気がする。


「無理だよ。アタシがあんたの息を止めようなんて、絶対にしない。むしろ逆さ。あんたがなにかしでかしても、どうやってでも生き返らせてやる」

「雲は優しいね」


 嬉しいが、そこまで言われるとは思わなかった。だから無難に言葉を選び、返事をしたつもりだ。

 けれどもなんと、雲の首は横に振られる。


「アタシ、あんたが好きだよ。それ以上のことは言えないけどね」

「どうして? 今までここへ来た人たちにも、同じように思ったの?」


 また、雲の首は否定に動いた。ただし同時に「答えられない」と。


「それも言えないんだ。でもあんたなら、察せるはずさ」


 なにか理由があるらしい。どんなものか分からないけれど、どうやら菫は特別のようだ。でなければ、人間にも獣にも自然にも平等のはずの狗狼が、菫に心を砕くわけがない。


「うん。察した」

「なら、良かったよ」


 ふふっ。と、無理やりに笑って見せる。雲の気遣いに報いる方法が、他に思い付かなかった。

 聡明な彼女には、それすらお見通しなのだろう。笑い返してくれるものの、少し困ったようにも思える。


 次の言葉を探すのに、時間がかかった。琴の練習を始めようと言えば良いけれども、なんだか白々しいように思う。

 雲もなにか思慮深げに、表の戸を見つめるばかりだ。


「――そうだ。久方ぶりに、戻ってみるかい?」

「戻る?」

「あっちにだよ。別になんてことはない、古くなった祠を見たいんだろ?」


 人間の言う、この世へ。古びた祠を見たことは何度かある。菫の生きたたかが十六年で、そこまで変貌するものでもない。

 特に見たいとも思わなかったが、雲に言われると見たい気もしてくる。


「うん、出来るの?」

「簡単さ。長持へ入りな」


 それはそうか。と、自分の軽率さを恨んだ。長持があの世とこの世を繋ぐ扉なら、そう言われるのは当然だった。


 ――でももう、平気かも。

 苦手と思い込みすぎて、やってみればなんでもない。という経験はいくらもある。悩んだところで答えのないのは分かっているのだから、えいやと意気込んで足を動かした。


「うん、それでいい。いいかい?」

「だ、大丈夫」


 息を止め、長持の底へ立った。くらっと目まいがしたけれど、歯を食いしばって堪える。

 縁に座った雲が、いつもの微笑で手を伸ばした。冷たい指先が額に触れ、軽く押す。


「うっ」


 もう一度。今度はよろめくほどの、目まいがあった。しかしどうにか、たたらを踏んで留まる。


「大丈夫だよ」


 心配をかけまいと、俯いた顔をすぐに上げた。笑顔もうまく拵えたつもりだが、そこに雲の姿はない。

 土間があって、縁があって、紙の張られない障子戸がある。その先はすっかりと暗く、どうなっているか見通せなかった。

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