第26話:夜の思索
――わたしに向いた、気持ち?
誰が、どんな風に。などと、持ち合わせる一人であろう雲には聞けない。
聞くとしても存分に考えてから、答え合わせとしてだ。それくらいはしなければ、失敬だと思う。
彼女はいつも分かりやすく、慈しんでくれる。狗神に仕える者の義務、ではないはずだ。これまでの優しさが全て空言だとしたら、菫はもうなにを信じていいか分からなくなる。
狗狼もまた、山神の勤めに収まらない。無愛想なのは表向きの性分で、彼の中身はとても温かいように感じる。
困らせるつもりはないのだが、ついつい菫は彼の思惑から外れてしまうようだ。そんなときの狗狼は、お人好しで微笑ましい。
「他に誰か、居るって言うの?」
椿彦だろうか。ちらと考えたが、すぐに打ち消す。半日にも足らぬ時間、少し話しただけのエテを覚えてさえいるものかと。
――雲が変なことを言うから。
あの若い公家の子が文を寄越してくれて、いつしか妻になる。という妄想をしてみたが、馬鹿馬鹿しくて己に呆れそうだ。
しかし雲は、探してみろと言った。それなら仮定に答えを出すのも必要だろう。
――椿彦とまた会うのは、嫌?
「嫌なわけないじゃない」
求婚とまで言われればなんとも答えかねるものの、椿彦を嫌う理由がなかった。
――雲がわざわざ言うなんて、それ以外にも居るってことかな。
東谷の面々は違う。彼らが菫に抱くのは、怒りや憤りのはず。罪を犯したと言われても、相変わらず心当たりがないけれど。
それももう、忘れてしまいたい。
「あっ……」
ではやはり、もう居ないと結論付けた。だというのに、閉じようとする思考の隙間へ駆け込んでくる者が居る。
――進ノ助のこと?
菫を返してほしいと、雪深い祠までやってきた。目利きという火が、幼馴染の気持ちを本物だと証明した。
それに当人が、もう少ししたら結婚するつもりだったと。そう言っていた。
「でも、無理……」
東谷へ居るときなら、いつかない話ではなかったかもしれない。しかしあの幼馴染は、菫を襲ったのだ。暗闇に取り囲まれ、為す術もなく縛られた。その主体に居たのが、進ノ助だ。
「ん、眠れないのかい?」
灯りを消した部屋に、雲が問うた。今日という日をずっと考えて、いつしかそんな時刻になってしまった。
「ううん。ちょっと考えごと」
「そうかい。アタシで役に立つなら、なんでも言いなよ」
「ありがとう、雲。大好き」
寄せ合った衾。ほんの少し腕を伸ばせば、手に触れられる。ここで寝起きするようになって、何度しがみついたか数えきれもしない。
「なんだい、アタシに惚れたのかい? 悪いけど、それだけは無理だよ」
「分かってるよ。そんなわけないでしょ」
闇に慣れても、形のいい鼻や口の輪郭が判別出来る程度だ。しかしちょっとこちらを向いて、悪戯っぽく笑うのが手に取るように分かる。
「焦ることはないよ、なるようになる。狗狼があんたを見捨てることはないからね」
「うん、嬉しい。でも雲は?」
あえて、聞いた。
悪い冗談としてならともかく、雲が菫を見捨てることもない。そう信じられるようになった。
むしろ最も強い希望として、考えてしまう。狗狼と雲と、ずっとこの祠へ居てはいけないのか。
けれど、それは無理だ。ここは神の住処で、菫は仮に置いてもらっているだけだ。焦らなくていいと言われても、いつかの時点で終わりが来る。
「アタシかい? もちろんだよ」
「もちろん?」
「……アタシもあんたが好きだよ。見捨てるなんてないさ」
随分と間があった。そこにどんな意味が挟まったのか、寒気が走る。
「どうかしたの」
「いや、菫が来てからのことを思い出してたんだ。なんでもない」
「そう?」
衾の端から、冷えた空気が忍び込んだ。雲の両手が、菫の手を強く握る。
「不安にさせてごめんよ。大丈夫だから。アタシは心底、あんたが幸せになってほしいと思ってる。信じてくれていい」
「うん、信じてる」
反対の手を出すと、一緒に握ってもらえた。向かい合い、そのままなにを語るでなく眠った。
雲の言葉に嘘はないと、願いながら。
明けた目覚めは、心地よかった。師走の二十九日。今年ももう、今日と明日を残すのみだ。
いつも通り雲が先に起きていて、濃梅の襲を着せてくれる。毎日同じ装いなのに、いまだ飽きない。
「これは春を待つ色だからね。春になったら、別のにしようね。桜色が定番かね」
雲の様子も特段に変わらない。彼女も夜更けに思うところはあるのだろうと、より近しく感じる。
「菫色ってある?」
「あるよ。薄い紫で、小さな花がいっぱいになってる。あんたみたいに、元気だけはある色だよ」
「元気だけってどういうこと?」
「どういうことだろうねえ」
菫の花を娘の名に決めたのは、父だ。冬に生まれたそうだが、「雪とか白とかじゃ、寒そうじゃないか」と。分かるような分からないようなことを、酔って言っていた。
「菫、居るか」
障子戸が叩かれた。狗狼から呼び出されるのは珍しい。まだ唐衣を着ていないのに、「居るよ」と顔を出す。
彼は毎度の狩衣に、簑を巻いていた。初めて見る格好だ。
「どこか行くの?」
「主上のところだ。毎年のことでな、日の暮れるまでには戻る」
「じゃあ、いつもとそんなに変わらないね」
「まあ、な」
菫の着付けを終えた雲から、狗狼は餅を受け取った。醤を混ぜて練ったものを、少し焦がして焼いたらしい。
「では行ってくる」
見送りはここでいいと、菫と雲は縁から手を振った。手を上げて何度か振り返りつつ、狗狼は表の戸を出る。
覗き見えた外は、雪が減っていた。それでも菫の腰くらいまではあるだろうが、昨日までがおかしかったのだ。
ぱたんと戸が閉まり、一度だけ雪を蹴る音がする。どうやらもうそこに、狗狼は居ない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます