第25話:おせっかい

 丸めた餅は、およそ三十個にもなった。合間に狗狼が食べてもいたので、実際にはもっとあったのだろうが。

 餅好きの狗神は手に何個かを握り、ほくほくと部屋へ引っ込む。

 いかめしい見た目に不釣り合いな可愛らしい後ろ姿を、後で茶を持って行ってやろうと見送った。頼りがいのある、大きな背中。意識せずとも、つい目で追ってしまう。


「良さそうだね」

「うん、たくさん出来たよ」

「餅のことじゃないさ」


 雲は臼へ湯を張り、束ねた細縄で擦り始める。「あんたはそっちだよ」と、菫には杵の洗いが任された。

 桶の湯はすっかり冷えていたので、かまどから熱湯を足す。細縄を握り、雲を真似て杵を擦った。へばりついた餅が、面白いように湯の中へ落ちていく。

 見た目には糊のようで、食欲をそそるものでない。しかしこっそり舐めてみると、丸めたのより一層甘い気がした。


「じゃあ、なんのこと」

「いいや、なんでもない。それより、雪がやんだみたいだよ」

「えっ、ほんとに?」


 言われてみれば、戸や壁を叩く風の音が聞こえない。杵と縄を置いて、表へ通じる板戸を開けに走った。

 祠に不自由はないが、ひと月以上もまともにお天道さまと会っていなかった。それはどうにも、気が滅入ってしまう。もちろん誰のせいでもないけれど、待ち望んだのを隠す理由もない。


「わあ、嘘みたいに晴れてるよ」

「だろう?」


 隙間から顔だけを出し、天を仰ぐ。もうすぐ翳り始める頃合いだが、陽は燦燦と輝いた。あれだけ続いた雪の雲は、どこへ消えたものか。雲隠れという言葉はあるけれども、雲のほうが隠れてしまうとは。


「気持ちいい……」


 冴えた空気と、突き通る陽射し。その二つが頬で混ざり合い、己の身体が雪解けの水として流れ出しそうな錯覚に陥る。

 清々しさを賛美する言葉も、自然と零れた。煤祓いをして以降、菫の心も少し落ち着いたように思う。


 寝付きの悪さは変わらないが、小さな物音のいちいちに飛び上がることは無くなった。

 ただこの歩みで行けば、静かな気持ちを取り戻すには何年かかるだろう。見通しを得ようとすれば、またそれで気が滅入る。


 ――やっぱり記憶を消してもらうのがいいのかな。


「菫。あんた、好いた男が居ただろ?」

「ええ?」


 すぐ後ろで、雲が言った。距離はどうともないが、急になにを言い出すやら驚く。

 振り返ると、冷たい両手で頬を挟まれた。唇と唇が触れそうなほど、彼女は顔を近付ける。


「そんなの居ないよ」

「あんた自身、そうと思っちゃないんだろうさ。でもこの祠へ来て、誰のことも頭に浮かばなかったかい? この先どうするか、都の宴へ一緒に行けないか、とかね」


 ――椿彦のこと?

 出来ればそっと忘れてしまいたい面々の顔は、勝手に思い浮かぶ。だが雲の言うのは、その反対らしい。

 すると当たるのは、狩りの案内をした若い公家の男だけだ。


「そう、その男だ。いやアタシには、あんたの思いなんて読めやしないよ。でも菫は、真っ直ぐな心をしてるからね。顔色を見てりゃ、お見通しさ」

「そう、なの? でもわたし、好きってよく分からない」


 親や友を好きと言うのとは、また違う。それくらいは知識として分かる。

 だからと、椿彦を好いているはずと言われても。知らぬ感情について、やはり頷けはしない。


「特別なことはないよ。そいつは今、なにをしてるだろう。好きな食い物はなんだろう。傍に居れば落ち着く。話していたい。触れていたい。そいつの子を拵えたい」

「そんな風に思うのが、好きってこと?」


 雲は大きく頷いた。話の通じたは良いが、なぜ唐突に言い出したかさっぱりだ。彼女のことだから冗談交じりであっても、悪い意図はないはずだが。


「言い出せばきりがないけどね。あんたはもう、いくらか思い当たったはずさ」

「うぅん、まあ。全く無いとは言わないけど」


 たしかに出会って数日は、頭にいっぱいだった。その後の衝撃が大きすぎて、吹き飛んでしまったのだ。

 あまりに儚く短いものだったが、初恋と言われればそうかもしれない。


「アタシの想像してる男なら、文句の付けようのない相手だ。少なくともあんたが嫁いで、食うに困ることはない」

「そんな、わたしは――」

「嫌なのかい? もしもそいつが文でも寄越してきたら、破り捨てるかい?」


 自分で作るにはまだまだだが、先人の歌はかなりを教えてもらった。夢と現実とを織り交ぜた甘い誘いに、貴族の女たちが傾くのも分かる。


 ――椿彦なら、きっと上手だろうな。

 菫がどう思おうと、あちらにも選ぶ権利がある。それをさておくなら、文などもらえば嬉しいに決まっている。


「破るわけないよ。そんな」

「そんな?」

「一所懸命に書いてくれたのを」


 否定の言葉を吐いた直後に、だからこれは妄想なのだと我に返る。取ってつけた言いわけを、雲は「くくっ」と笑った。


「いいんだよ、アタシは。可愛いあんたが幸せになれるのは、どうだろうって心配なだけでね」

「ありがとう。雲は最初からずっと優しくて、感謝してるし信用してる」


 それは良かった、と。彼女は噛みしめて、何度も頷いた。宴のご馳走を食べてでもいるように、口角が喜びのほうを向く。


「なら。その言葉に甘えて、一つだけ余計なお節介をさせておくれよ」

「うんうん、なあに?」


 雲がそこまで言ってくれるなら、断るはずもない。二つ返事に、また笑ってくれた。


「菫、あんたはさ。嫌なことで腹をいっぱいにされちまってるよね。アタシはさっさと消しちまえばいいと思うけど、言いたいのはその先さ」

「うん」

「あんたを幸せにしたいって気持ち。気付けないのも仕方がないよ。そんなのがあるわけないとさえ思うかもね」


 頬を挟んでいた手が、いつの間にか菫の両腕を撫でる。


「でもきっとあるからさ、探してみなよ。どんな気持ちが、自分に向いてるかをね」


 柔らかな手つきは、寝かしつけられていると錯覚しそうだ。しかしそれが、きっと雲の気持ちに違いない。

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