第24話:好物とは
年の瀬も押し迫る中。例によって菫は、狗狼の部屋に居た。昼寝をする傍らで、彼の新しい狩衣を拵える為に。
壁の向こうを、少し強い風が鳴る。降り続く雪のおかげで、貂や鹿も見なくなった。人間に至っては、ひと月半も前。進ノ助の来訪が最後だ。
――誰か来る、わけないか。
吹雪の中を、無事に辿り着けると考えるほうが愚かに決まっている。だのに、十二分に理解していても、心のどこかへ虚しさが付き纏う。
「今日は二十八日だからね、餅をつくよ」
同じく例によって、突如として動き始める雲。慣れっこだが、煩そうに半目を開けた狗狼がかわいそうだ。
「二十八日だから?」
「鏡餅さ。知らないかい?」
餅をつくとは事前に聞いている。三日前から餅米に水を吸わせるのは、菫も手伝ったのだから。
餅つきが今日というのも聞いていたが、日付けを理由にとは知らなかった。
「お餅を鏡になんて、映るの?」
「あはは。違うよ、鏡みたいに平べったく拵えるだけだよ。歯固めの餅って、硬くなったのをみんなで噛じるのさ。小さな子から、年寄りまでね」
へえ。としか、返事が出来ない。
鏡が物を映すと知っているが、平たいのは知らなかった。
餅とは下手に触れぬほど熱く、べたべたした柔らかい物と聞いた。正直なところ、そんな物体が旨いのかと疑問にさえ感じる。さらにはそれが硬くなるとは、どういうことか。
「二十九日じゃ、苦餅になる。三十日じゃ、一夜餅だ。それに比べて、八は末広がりで縁起がいい。らしいよ?」
「そうなんだ。雲はなんでも知ってるね」
「それほどでもあるさ。平らにするから二十八って話もあるけどね」
縁の端にある物入れから、雲はなにやら取り出そうとしていた。手伝いに立つと、両手に抱えるほど大きな木槌のような物を渡された。なぜか濡れているが、これも必要なのだと言う。
また彼女は、
土間へ薦を敷き、木の鉢を据える。ひたすら重いそれは、餅をつく為の臼と聞いた。これに蒸した餅米を入れ、杵と言うらしい槌で叩けば餅になると。要は米を潰した団子ということだ。
「さあ、やるか」
「やる気になったね?」
「当たり前だ」
準備が整うと狗狼は袖を捲り上げ、紐を絞った。雲の言う通り、菫にも分かりやすく気合いが入っている。
「お餅が好きなの?」
「我の好物だ」
「そうなんだ。じゃあわたしにも、おいしいかな?」
「さてな。食ってみれば分かることだ」
杵の先で、臼の中がぐるぐると掻き回された。ばらばらだった餅米が、なんとなくひと固まりになる。
すると臼の対面に雲が膝をつき、「ほっ」と餅米をひっくり返した。手を引いたところへ、狗狼の杵が軽く下ろされる。それが上がると、また雲がひっくり返す。
「ほっ」
「それ」
「ほっ」
「それ」
軽妙な繰り返しが、見るにも聞くにも心地いい。琴で奏でるのとはまた違った、自然な音の調べだ。
「菫もやってみな」
「うん、やる。うまく出来ればいいけど」
十回ほどで、雲は場所を譲った。最初から手本を見せるだけのつもりだったのだろう。菫も遠慮はしない。杵に手を潰されそうで怖いが、狗狼ならうまく合わせてくれるに違いない。
「良ければいくぞ」
「うん、お願いします」
杵に僅か水を付け、また狗狼は振り上げた。先ほどまでより動きが大きいのは、餅米が形を失くしてきたからか。
「それ」
「う、うん」
「それ」
「う、うん」
手を動かすのと声を出すのと、両方が思いのほか難しい。雲がやるように、一定の拍子を続けられない。
けれども期待のまま、狗狼のほうが合わせてくれる。それでどうにか、三十回もつくころには要領を得た。
「それ」
「うん」
「それ」
「うん」
合いの手と言うより、呼ばれて返事をしているだけのようだ。どうも菫は、自身で思う以上に、器用なほうではないらしい。
「いやいや、上出来だよ」
「本当?」
いつまで続けるのか、足が痺れてきたころに雲が割って入った。餅米の潰れ具合いを見て、出来上がりだと言ってくれる。
もわもわと湯気を上げる、少しだけ黄色がかった艶々で真っ白な塊。お地蔵さんの頭のようだ、と。不信心にも想像してしまう。
「熱いうちに千切るよ」
縁に敷いた薦へ、狗狼が餅の塊を移す。さらさらの粉を手にまぶし、雲が拳大に千切っていく。
あの長い爪と毛むくじゃらの手で、狗狼はそれをうまく丸めた。
「この千切った部分を纏めて、底にするのがコツだ」
「わたしもやる」
二人があまりに軽々とこなすので、菫は不用意に餅を握った。が、あまりの熱さに投げ捨ててしまう。
「熱っ!」
「菫!」
菫が胸の前へ引き寄せるよりも早く。狗狼の手が、手首を掴んだ。決して力任せにすることなく、彼の頭が近付く。
「大丈夫か。火傷はしていないと見受けるが」
「え。う、うん。驚いただけ」
と言ったのは、事実でない。指先がじんじんと火照っている。しかし放っておいても問題のない程度。それよりも驚いたのは、狗狼の反応にだ。
「そ、そうか。ならば良かった」
「心配してくれてありがとう」
「当たり前だ。お前を守るのも勤めのうち」
礼を言ったのに、勤めと言われてしまった。たしかにそうではあろうが、なにか寂しい気分になる。
掴んでいた手も「すまん」と、慌てて離された。すまないことなど、なにもないのに。
「ええと……最初に作ったのだけ、大きくない?」
直ちに話題を変えようと、狗狼の目の前へ置かれた餅が目に入った。
たしかに最初のひとつだけが、ふた回りほども大きい。自分から聞いておいて、改めてそう感じた。
「これを鏡餅にするのだ。他は好きなときに食う」
「大きいだけなのね。特別に細工でもするのかと思った」
「うむ、それだけだ」
形を整え、放置しておけばすぐにも硬くなり始める。正月にはカチカチになるというのも、納得の勢いだ。
だがそんな物を、いったいどうやって食うのか。聞くと狗狼は、しばし悩んでから答えた。
「まずは焼く。膨れたところへ、塩を付けるのも甘葛に浸すのも旨い。だがやはり、白湯浸けにするのが我は好みだ」
「焼くと柔らかくなるんだ?」
「そうだ。今柔らかいのとは、また別の風合いになる」
焼くと膨れるとは、また想像がつかない。高い餅米を使って、なかなか奇天烈な食べ物が出来上がるものだ。
「ああ、そうだ。そのまま食べてごらんよ、つきたてはまた格別だよ」
「えっ、いいの?」
「もちろんだよ」
貴族の奥方や女房になれば、そんな真似ははしたないと言われる。だから今だけと言われ、勧めに従うことにした。
また新しく千切ったのを雲から受け取り、端を啄む。
「はっ、はふ。あつい――でも、おいしい。米の飯とはまた、全然違うんだね。雲を食べたら、こんななのかな」
「あんた、前にもそんなこと言ってなかったかい?」
ふわふわとして、強い弾力がある。そして聞いたように、もちもちと粘りつく。それが空に浮かぶ雲を想像させたのだが、笑われてしまった。
「そうだったかな。ねえ、狗狼も食べてみてよ。雲ってこんな感じよね?」
「む、むっ?」
彼なら分かってくれるに違いない。味方になってもらおうと、手にした餅を突き出す。
しかし狗狼は、咄嗟に首を仰け反らせた。
「あ、ごめんなさい。わたしの食べたのなんて、汚いよね」
「そ、そんなことがあるものか。ない。それは絶対にないぞ」
引っ込めようとした手を、また掴まれた。力強く引き寄せられた餅が、手の中から半分ほども持っていかれる。
「うむ、うまい。格別だ。たしかに雲を食う心地と言われれば、そんな気がしなくもないような思いがあるな」
「どっちなの?」
感想よりも、無理をさせたのでないかと。狗狼の顔を覗こうとした。だのに彼は、一向に視線を合わせない。
「菫。好物を食ってるんだ、好きにさせてやりなよ。嫌がってなんかないのは、アタシが請け負うよ」
「うん、分かった」
――そんなことが、なんで雲には分かるんだろう。
怪訝に思いながらも、菫は残った餅を腹に収めた。
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