第23話:大祓え
御覚山には、毎日多くの雪が降った。祠から鳥居までは白い敷物といった風情だが、その外は聳える壁となるほどに。
「てっぺんに近いからかな。毎年こんなに降るの?」
狗狼の部屋は、大量の蝋燭が燃えている。ゆえに暖かく、菫は入り浸るようになった。もちろんそれは、ひと月ほど前に彼の昔話を知ったからでもある。
思ったよりも厳格でなく、むしろ遊び心がある。雲の言うよりも、人間を恨んではいない。そう感じ始めた。
「いや、今年は多い」
「雪を降らせるのも、狗狼の仕事?」
「冬を司る者が居る。その気分次第だな」
二人で向かい合い、鞘豆の
「機嫌が悪いんだ」
「我の知るところでないが、そうとも限らん。雪が多ければ人間にも喜ぶ者は居るし、用途はいくらでもある」
鋭い爪が、首の後ろを掻く。あの指で豆を扱うのは難しそうだが、意外と器用に狗狼はこなす。琴や敷物の手入れに比べれば、簡単なのかもしれない。
「氷売りっていうのがあるらしいね。でも他にあるかな」
「さあな。しかしたとえば、誰かを閉じ込めることも可能だ。現に我らが、こうしているように」
たしかに雪の牢獄と呼んでも余りある。食材の不足せぬ辺り、狗狼にはなんでもないのだろうが。
暖かく食う物に事欠かぬ祠でなく、ひとり山中で取り残されているとしたら。それは拷問や、処刑の域だ。閉じ込められた仮定の誰かの境遇に、ぶるっと震えが襲う。
「冬の神さまも居るのね」
「神ではないが、まあ似たようなものだ。
「歳神さまは知ってる。毎年同じように巡ってくるのは、そのおかげって」
「そんなところだ」
単調な作業に狗狼の声は眠くなる。常に話しかけるのは、その為だ。
彼の音量が、いつも一定だからだろう。離れていても、近くても。賑やかに雲が話していても、夜の雪がしんしんと降る中でも。多少は慌てたところも見たように思うが、やはり変わらなかった。
若い獣は動作が慌ただしく、老いれば木石と見分けがつかなくなる。それと同じようなものに違いない。
「さあさあ、そろそろ終わったかい?」
ガラッ、と勢いよく障子戸が開いた。現れた雲は頭に手拭いを巻き、袿の裾もからげている。出かける準備、にしては様子が違う。
「なんだ、まだ蚕豆に手が付いてないじゃないか」
「だって雲、量が量だよ。一度にこんなたくさん、剥く必要があるの?」
「今日使うわけじゃないけどね。明日は明日でやることが多いのさ、なんたって師走だから」
言いつつ男前に笑い、雲は隣へ座った。菫の取った鞘豆を横取りして、その条を取る。言うだけあって、菫の何倍もの早業だ。
「師走だからって、どうして忙しいの」
「煤祓いだろ、餅つきだろ、御節料理に、南瓜も炊かなきゃいけない。挨拶回りもだねえ」
「挨拶って、誰に?」
土地を守る山神とその付き人が、挨拶をされこそすれ。赴くべき相手など居はしまい。いやもしかすると主上と呼ばれている、偉い神さまのところか。なるほど雲の変わった格好は、その装束なのだ。
と、納得しかけた。
だが目の前の狗狼が、やれやれという風で首を横に振っている。まま、雲を見れば「くくく」と笑う。
「嘘なの?」
「洒落と言ってほしいね。順に済ませておけばいいものを、わざわざ年末に取っておくのが人間の好みなんだろ?」
「わたしはしないけど……」
月に一度やって来る南の町の宮司なども、師走は忙しいと毎年言っていた。その月にやるべしと決められた行事の多いせいらしいが、山に生きる菫には縁がなかった。
「まあまあ。あんたが女房にでもなったら、知らないじゃ済まないしね。やれることはやってみればいいと思ったんだよ」
「うん。知らないよりは、知ってたほうがいいからね」
雲に答え、視線は狗狼を盗み見る。すると狗神は、もっともだと頷いていた。
――良かった。
答えを間違わなかったことに、ほっと息を吐く。彼は菫の今後に対して、これ以上なく心を砕いてくれている。
また同等に、菫が無理をすることを厭うた。過保護とも思うが、狗狼の抱く罪悪感からと思うと、無下にも出来ない。
そんな気遣いを置くとしても、もっと狗狼を知りたいと思った。妹のように扱ってくれる雲と同じように。
彼ならば、父と娘になるだろうか。どうであれ、彼と自分の価値観が近ければ嬉しい。
「いやあ、やっと終わったね。誰だい、こんなにたくさん用意したのは」
「お前だ」
「雲だよ」
豆剥きが終わるまでに、半時ほどを必要とした。およそ半分は、雲のお喋りに費やされたが。
夕餉の支度には、まだよほど早い。伸びをする狗狼を眺め、なにか話すきっかけを探した。しかし話題が見つからない。
「よし、じゃあ次だよ」
「今度はなんだ」
「言ったじゃないか、今日は掃除だよ。煤祓いをするんだ」
今日とは聞かなかったはずだ。が、言っても詮ない。狗狼も諦めた風に「分かった分かった」とあしらう。
しかし
「これ、どうするの?」
「箒を知らないのかい? こうするんだよ」
同じ道具を持った雲は束ねた枝を持ち上げ、天井へなすりつけた。どうやら埃を掃き出す物らしい。
自分の住処では、葉の付いた枝で行っていた。専用の道具があるとは知らなかった。
「でもこの祠は、いつも綺麗だけど。どこを払うの」
「払うんじゃない。祓うのさ」
「それ、どう違うの?」
雲は答えず、祠の主に顔を向けた。狗狼も投げやりにだが、頷いて見せる。そして気怠げに手を突き出し、爪の先を合わせてカチと音を鳴らす。
「わあ……」
ばたばたとけたたましく、戸の開く音が連なる。凍った風が一気に吹き込み、蝋燭の炎が大きく揺らいだ。
「ここは願いを叶える祠だからね。邪気も溜まりやすいんだよ。それを追い出すのが、大祓えさ」
先の練習とは違い、全身を捻るように箒が動く。狗狼の部屋から土間へ向け、雲はひと息に天井を掃く。
煤汚れはおろか、塵一つさえ見当たらなかったはず。しかし箒の掃いた向こうへ、どす黒い靄が薄く拡がる。
「あれが――」
「あんたもやってみな。土間の天井をね」
「う、うん。いいのかな」
願いを携えた者が邪気を運ぶのなら、長持のある土間が最も穢れているだろう。そう思うと気後れがして、狗狼を振り返る。
すると彼はゆっくりと頷き、言った。
「案ずるな。やってみればいい」
「うん、やってみる」
草鞋を履き、土間へ下りて箒を構える。しかし重大な問題に気付いた。
「どうしよう、腕を伸ばしても届かないよ」
「そりゃあそうだ。いちばん高いところだからね」
なにか踏み台になるものはないか。辺りを見回すうち、前触れもなく。急激に視界が上昇する。
「わっ!」
「これで届くだろう。どこから始める?」
菫の尻は、狗狼の肩へ乗っていた。経験のない高さに慄いたものの、両手で支えられた腰が動かそうにも動かない。落ちる心配は無用らしい。
「こんなことさせて、バチが当たらない?」
「我が好んでやっているのだ。構うものか」
「好んで?」
「気にするな。言葉の綾だ」
いいと言うなら、精一杯にやろう。そう思い、力を篭めて天井を掃く。最初は箒がうまく動かせなかったが、何度目かですぐに要領を掴んだ。
「じゃあ行くよ」
「思いきりやれ」
「そおれっ!」
高窓へ向け、力いっぱいに掃き出す。追い出されてなるものかと、誰かが抵抗しているようにも感じられた。
けれども負けず、振り抜く。
「いいね。でももっと行けるよ」
「うん!」
胸の奥に溶けて張り付いた重みが、少し軽くなった気がする。一度でこれなら、祠の隅々までを清めればどうなるものか。
期待を篭めて、また箒を動かす。
「見よ。盛大なものだ」
雲のお手本には及ばない。しかし生の松を燃やしたような、濃い色の靄が空へ逃げていく。
「ほんと、凄いね。でも祠じゅうやらなきゃ」
「うむ。足場は任せよ」
たった一年で、これほどか。怖気を感じたものの、気付かぬふりをする。日が暮れるまで、菫は狗狼の肩へ乗り続けた。
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