第22話:狗狼の仇敵

「我が罠に気付くのはな、臭いだ」

「人間の?」

「いいや、土の。人間が罠を仕掛けるには、土を掘り返す。それは猪どもが根を探すのと違い、新しい土の臭いしかない。そこに獣の臭いのないことが、不自然なのだ」


 あっ。と、息を呑む。

 あえて獣を捌いた後の手で仕掛けるとか、菫も自身の臭いに注意を払った。しかしそれでは足らなかったらしい。


「驚いたか。あの猟師も最後まで気付かなかった」

「最後までって、死んだの?」


 狗狼の目が、遠くを眺める。顔の上向くのはほんの少しで、そんなことで数百年を遡れるのか、と菫などは思う。


「順に話そう。我が十二、三年も生きた夏のこと。新たな狩り場を求めたのだろう、あの男がやって来た。奴が罠を作り、我が壊す。秋が終わり冬になっても、あれはよそへ行かなかった」


 フッ。と、狗狼が笑った。表情の変化は分からない。けれども僅かに噴き出した息は、たしかに笑声だった。


「思い返せば、我も調子に乗っていたやもしれん。奴の罠を壊すのが、使命のように感じていた」

「楽しかったの?」

「楽しいはずがない。互いに命がかかっているのだ」


 本来はそうだ。しかし今の狗狼はそう見えない。旧友と馬鹿な遊びをした、という話を聞いているように錯覚してしまう。


「結局、我は負けた。狭い岩場だ。矢を射かけられて、奴を追った。奴は逃げながら、蔦を切る。途端、目の前から丸太が飛んできた。男は腹這いになって避け、我は避けられなかった」


 男自身も危うい、捨て身の行動に出るとは思いも寄らなかったと。今度は舌打ちが聞こえた。小さく威嚇の唸りも。

 狼らしい怒りの素振りに、肝が冷える。だが彼の感情に触れるのは、とても新鮮だ。


「その夜、皮を剥がれた我のむくろに雪が積もった。我は上から見ていて、不思議に思ったものだ。やがて朝になり陽の光が注いだ、かと思えば違う。それが主上だった」


 一条の眩い光が、斃れた狼を照らしたらしい。

 なかなかの荘厳な光景だろうに、狗狼の猟師に対する感情が失せた。淡々と、事実を並べていく。


「前置きもなにも無かった。同じ山の獣たちを守った行いは尊いから、続けろと」

「そうか。人間は困るけど、鹿や兎たちは感謝しているのかもしれないね」


 邪魔をされ続けた猟師とすれば、食い上げの危機だ。菫にはその部分への共感が大きい。

 だが山の全体を見るなら、一方的に狩られるのを防いだことになる。きっとそうだろうと想像し、同意を示した。

 だのに狗狼は「そう思うか?」と、怪訝な風に答える。


「そのとき、なんの皮肉かと考えた。狗神となった今も分からんが。我にそんなつもりは毛頭なかったし、そもそも狼こそがあらゆる獣の敵だ」

「そうか……」


 軽率な物言いだったかもしれない。声を萎ませると、狗狼の目がこちらを向いた。そしてなにを言うこともなく、手招きをする。

 近付くと、そこへ座れと指さされた。狗狼の座る、すぐ目の前へ。


「どうしたの急に」

「我がそのとき考えたことを披露しているに過ぎん。我でないお前がどう受け取ろうと自由だ。兎から感謝されるなど、思い付かなかった」


 座った頭を撫でられた。髪を後ろで束ねているのも構わず、毛むくじゃらの手がわしわしと。力任せに。


「ありがとう。でもちょっと痛い」

「おっと、それはすまない」


 痛みはほんの少しだ。しかし狗狼は、熱い鉄瓶でも触ったように手を離す。


 ――もっと撫でてほしいな。

 冗談を言ったことに、後悔した。


「まあ、それでだ。主上は我に、男の姿を見せた。奴は連れ添いと娘と、三人で暮らしたらしい。その三人が、我の肉を喰らった。皮も売って、食う足しにした」

「うん。獣の命をもらうんだから、せめて無駄にするなって」


 師匠がと言いかけて、腹に重石が降った。ぶるぶるっと震えて、吐き気を追い出す。狗狼の視線にも「大丈夫」と応じた。


「それも狩る側の言い分だが、分からんでもない。我の骸に触れもせず、ただ踏みつけていたら。憎む意味合いが変わっていたろうからな」


 もう横槍を入れない。誓って「うん」と頷く。すると狗狼は、「どうした?」と首を捻る。


「大丈夫だから。狗狼の話が聞きたいの」

「そうか? お前に余計な労をかける気はない。ここへ居る間は、思うがままにしろ」


 その勧めは、いつもの無愛想でなかった。相応の温もりが伴っていたように思う。

 するといつもは、なんだろうか。やはり自分を原因とする、義務に縛られたゆえか。


 ――そんなの、気にしなければいいのに。

 不器用な態度に、ふと父を思い出す。思い出もあまり無いが、仕事に厳格で菫には滅法甘い人だった。


「ある日、男が死んだ。我の死んだ、同じ冬だった。雪で足を滑らせ、岩場から落ちた」

「えっ」


 話が元へ戻された。

 驚いたのは、「さて」などと継ぐ言葉もなかったこと。それに男の死に方が、父と同じだったこと。


「せっかく邪魔者を退けたというのに、あっけないことだ。我が覗き見たのも、なんの為やら分からん」

「娘も居たんだよね」


 それも菫と同じだ。狗狼の頷きが、死刑の宣告のようでつらい。

 けれどもそれで終わりでなかった。「だがな」と、声が続けられる。


「その娘が嫁ぎ、子を産んでも。男の連れ添いが死に、娘が同じように老いても。そのさまを我は見せられ続けた」

「そんなに長く」

「うむ。見る側として、その感覚は無かったがな。考えてみればそれだけで、何十年と経ったわけだ」


 そこで彼は、大きく息を吸う。一旦止められたのが、ゆっくりと細く吐き出されていく。その間、金色の瞳が部屋のあちこちを見回した。

 特に意味はあるまい。そうやって、気持ちとか考えとかを纏めるのだ。苛々したとき、落ち着く為に菫もそうする。


「で、我は狗神となった。この山を守ってはどうかと、主上に言われてな」

「うん」


 答えてから、他に言葉はなかったかと悔やむ。しかし見つからない。まだ十六の菫には大きすぎる話だ。


「おかしな話だろう。変だと思えば笑っていい。我自身、そう思うのだからな」


 自嘲は明らかに拵えたものだ。雲と比べるべくもない、不出来な演技だ。本心を見せないという意味では、どちらも完成度が高いけれど。


「変じゃないよ」

「む?」


 否定はとても容易だった。理由を説明するだけの語彙が無いだけで、心の底からそう思う。


「狗狼。どうしてだか分からないけど、言いたいことがあるの」

「な、なんだ。気分でも悪くなったか」


 唐突にはきはきと喋りだした菫に、狗神は戸惑う。

 ――なんだ。優しいだけじゃなく、可愛らしい人じゃない。


 不埒かもしれないが、そんな風にさえ感じた。ただ、言いたいこととはまた別だ。手を渡してくれるよう、菫は己の手も差し出した。

 狗狼は断らない。首を傾げながらも、手と手を重ね合わせる。

 少し力を篭めて、それを引き寄せた。胸に抱き、自然と湧き出した言葉を投げかける。


「ありがとう」


 その言葉を発する僅かな時間。菫は久しぶりに、笑っていたかもしれない。

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