第21話:伴わない理由
「ねえ、雲。もしかしてと思うんだけど、繕いの上手なもう一人って、狗狼?」
祠へ戻り、当てがわれた部屋で雲と向き合う。
おかしいと思っていたのだ。この建屋に、菫も含めた三人以外の潜める場所などない。外へ小さな納屋はあるが、誰かが寝起きしているなら、なんらかの痕跡が残るはずだ。
「ああ、そうさ」
「やっぱり。面と向かってお礼を言ったら逃げ出すって、そういうことね」
よく分かったねと、わざとらしく。雲はおどけて答える。頭痛のした気がして、指先で眉間を押さえた。
――こんな
どうにも本気と区別のつかない、おふざけが多いように思う。彼女の気遣いと優しさに助けられているのは、もちろん疑いないけれども。
いや、想像する狗狼の性格を思うと、暗に口止めされているのかもしれない。
「あらためてお礼を言ったら、迷惑かな?」
「あんたの礼を迷惑がるほど、狗狼も枯れちゃいないよ。琴の手入れを自分の手でしてるのも、たまたま見られちまったことだしね」
「たまたま、ね」
考えてみれば、祠へ置いてもらうことの感謝を言っていない。文字通りに無礼千万だが、今からでも言わぬよりはいいはずだ。
「言ってくる」
「アタシも行こうか?」
「ううん。雲に手伝ってもらったら、お礼にならないもの」
満足げに頷く雲を残し、狗狼の部屋の前へ立った。表の戸の外で、雪が鳴り始めている。
「菫か。なんだ」
障子戸越しに声をかけようとして、先を越された。神さま相手とは、どうもやりにくいものだ。
「入っていい?」
「構わん」
無愛想な返事は、怒っているようにも聞こえる。けれどもこれが彼の普通なのだと、菫にも聞き分けられるようになってきた。
「お礼を言おうと思って」
「礼だと? 山鳥のなら、先ほど馬鹿丁寧に頭を下げていたろう。あれだけでも、おくびが出そうだ」
部屋の中は変わらない。たくさんの蝋燭に照らされた黒い狩衣姿の狗狼が、胡座で薄目を開けた。
「そうだけど、そうじゃないよ。綺麗な布を着させてもらって、衾も敷物も。食べ物だって全部、狗狼が用意してくれてるんでしょ?」
「まあ、な。しかし前に言ったが、お前がここに居るのは我に原因がある。ならば滞在に不都合の無いようするのは、当然のことだ」
だから感謝は要らぬ。と、また先を越された気がして立つ瀬がない。しかしこのまま、そうですかと戻るのも悔しい。
「原因って……そんなに大切?」
「大事か小事かは問題でなかろう。無視しては理の通らぬものだ。雨が降らねば、川は生まれん。しかし魚が獲れるからと、雨に礼を言う必要はない」
うまく喩えたつもりだろうか。似てはいるが、話が違う。
菫は悪意を働かしているわけでない。あくまで善意で「ありがとう」と言ったら、「いいってことよ」などと気軽に受け取れば良いではないか。
――でもそれはわたしの勝手な理屈、か。
「分かった。お礼を言うのは、また考える」
「考えなくていい」
にべもない。同じ祠へ居るというのに、なぜこうも雲と違うのか。やはり根本に、人間への価値観があるように思う。
「原因って言うなら」
「んん?」
「人間を嫌ってたんでしょ。なのにどうして、山神になったの。人間も獣も、みんな平等にしなきゃいけないのに」
「主上に命ぜられたからだ」
狗狼の手の平が、首の後ろをごしごしと強く撫でる。鋭い視線が「それがどうした」と問いかける。
「断れなかったの?」
誰かから受けた恩を他の誰かにも公平に分け与えたい、とでも言うならまだ分かる。だが狗狼は違う。
確信を持って聞く狗狼は、呆れたように息を吐いた。
「雲か。昔の話を聞いたのだな」
「うん、ごめんなさい」
「聞かされた側に責などない」
頭を下げると、即座に手を振って否定がされた。
しかしなかなか、その手が元の位置へ下りていかない。やがて視線が菫から外され、なにごとか考えているらしかった。
「……我が死して、天に還る直前のことだ。断る選択肢はあった。殺した人間を憎いと思ったし、そうするのが自然だったろう」
「なにか、言われたの?」
「主上にか。いいや、言われない。ただ、見せられた」
なにか堪えるように。あるいは懐かしむように、狗狼は顔を上向けて目を閉じる。
「なにを?」
「我を殺した人間が、その後どうしたかを。男は猟師だった、お前と同じに罠を使う。我が罠を壊すので、頭を悩ませていたようだ」
稀にそんな獣は居る。括り輪や落とし杭を作動させることなく、きっかけとなる縄や踏み板を蹴散らしてしまうのだ。
うまく隠そうとすればするほど、人間を嘲笑うように。
「うん。狗狼は昔から賢かったんだね」
「まあな、だが知らぬことも多かった。さて、なにから話せばいいか」
意外なことに、自身の昔話を聞かせてくれるらしい。思い返す素振りは、それほど長くかからなかった。
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