第20話:山神の作業場

 毎朝。目が覚めるたび、ここはどこかと不安に押し潰されそうになる。

 真白な漆喰の壁。真新しい無垢の柱や梁。真っさらな絹の衾。ようやく見慣れた光景を見て、触れて、安堵に息を吐けた。

 この祠が今の菫に許された、唯一の寝起きの場所。そう思えるようになったのは、ここ二、三日のことだ。


 なにがあった、ということもない。祠で暮らす時間が積み重なり、どうやら居ても良いらしいという感覚が芽生え始めた。

 同時にそれは、いつか去るときにどれだけを返せば良いか。借金を増やすような思いでもあったが。


「起きたかい? それならすぐに出かけるよ」

「どこへ?」

「なにを寝ぼけてんのさ。狗狼を笑いに行くんだろ」


 そんな約束はしていないと首を振る。菫の知らぬ場所で狗神がなにをしているか、覗き見に行くだけだ。

 齟齬はともかく、温い水で顔を洗い、出かける準備をする。小袖に綿入れ、草鞋も用意してもらえた。


「狗狼ももう居ないの?」

「いいや、まだ部屋だよ。外で待つんだよ」


 祠の外は溶ける気配のない雪景色だ。表面が凍ったのを踏めば、ざくざくと感触が心地いい。

 雲の言う通り、祠の見える木々に紛れる。けれども狗狼が、いつ出かけるかは分からない。じっと待つのは退屈と言い出した雲の言うまま、凍り付いた沢のほとりで蟹を獲って時間を潰す。

 すると四匹目を藁に結んだところで、祠の戸が開いた。


「今日は近場らしいね」

「どうして?」


 出てきたのは、いつもの狗狼だ。遠出をするときは違うのだろうか。思い当たるような格好を、見たことがない。


「遠くへ行くときは、四本脚で走るんだ。それだとかなり速くてね、近場で良かったかもしれないよ」


 と言うのは普段の姿でなく、元の狼の姿に戻るということか。それはそれで見てみたいと思うが、雲はさっさと追いかけ始めた。菫もその後を追う。

 狗狼は雪など無いように、大股で歩いた。足跡を見れば、しっかり埋まっているのに。雲も同じく。主より小柄な分、素早く足を前後させる。


 ――あんなの、着いていけるわけない。

 山に慣れた菫をして、ひと目でそう思う。だがやってみることもせず、音を上げたくはなかった。

 せめて歩きやすいよう、狗狼と雲の足跡を踏んでいく。するとなぜだか、雪が脚に纏わりつかない。それどころか、寒ささえ感じない。人外の二人の速度に、やすやすと追いつける。


 不可思議な出来事は、もう今さらだ。けれどもそうして訪れた場所は、さらにその域を超えた。

 森の中の広場。と言ってしまえば、大したことはない。だが雪に覆われた山中へ、短い草だけの地面が忽然と現れる。位置としては東谷の直上に当たるが、こんな場所があるとは知らなかった。

 いや。菫の知る御覚山に、こんな空間は存在しない。


「なんでここだけ、雪がないの」

「狗狼の作業場だからねえ」


 言われて、たしかにそんな雰囲気だと思う。間口も奥行きも、それぞれ二十間ほど。およそ四角く囲むように、丸太が低く積まれている。

 真ん中には長い脚の台があって、狗狼はその前に立った。背中の側から見る分にも、いつ振り返るか気が気でない。


「ここでなにをするの?」

「すぐに分かるよ」


 ここまで来てなにをか言わんや、と言われるだろうが。覗き見はやはり気が引ける。

 だからと、やはり帰るとも言い出せない。狗神がこんな場所でなにをするのか、知りたいのが本心だ。


「あれって、わたしの使ってる琴?」

「そうだね」


 どこから取り出したものか、作業台には箏の琴が載った。縁へ施された小さな蒔絵に、見覚えがある。

 祠の物であるから、狗狼が持ち出して悪い道理はない。ただしこんな場所でどうするつもりか、見当もつかなかった。


「なに、してるの――?」


 気高き狗神は、琴の弦を自前の爪で弾く。大きな耳を近付けて、一本ずつを繊細に。ひと通り鳴らすと、弦を支える柱を少しずつ動かした。また爪で弾き、音の変わりようを聞く。

 どう見てもこれは、琴の手入れだ。しかしそれで終わりでなく、細い筆が取り出された。どうも色を付けているらしい。弦の一本ずつに、異なる色を。


「なにをしてるように見える?」

「わたしが使いにくいって言ったから、その調整でしょ。意地悪な言い方ね」

「意地悪かねえ? 誰でも見れば分かると思ったんだけどさ」


 息を吹きかけて色を乾かし、また先と同じように鳴り具合いがたしかめられる。問題なかったようで、今度は磨きにかかった。手拭いでごしごしと、細かなところまで丹念に。


「どうしてあんなことを」

「どうしてって、菫のためにだろうさ。狗狼も神さまなんだから、力を使えばすぐなのにね」

「わざわざ手間を?」


 人間の願いを叶えるほどの力があれば、琴の手入れくらいは問題にもなるまい。あえてそうしない理由を、雲は教えてくれた。小さく笑いを堪えながら。


「我の手でやらねば信に欠けるように思う、んじゃないかねえ。知らないけどさ」

「信に欠ける……」


 どうやっても悪い意味には受け取れない。元々の発言者は、どんな意図で言ったのか。あまりに多くを感じさせる言葉だ。

 噛みしめていると、狗狼の手が止まった。


 ――今度はなにをするのかな。

 この場で行うすべてが、菫の為と決まったわけでない。分かっているが、淡い期待が勝手に起きる。それはきっと、狗狼が狼だから。

 優しい獣は、おもむろに小石を拾った。指先へ挟んだかと思うと、いずこかへ向け弾く。


「あっ!」


 大きな声を上げてしまった。小石がその一撃で、山鳥を落としたのに驚いた。

 頭に当たったようで、まだ生きているが起き上がれずに地面でもがく。歩み寄った狗狼は、摘んだ首を裂いて血抜きを始めた。


「そこに居るのは雌兎か」

「そうだよ、ぴょんぴょん」

「愚か者。それは鳴き声でないわ」


 案の定、気付かれてしまった。

 菫は首を竦めて、お叱りの言葉を待つ。が。狗狼はそそくさと片付け、帰りの道を歩き始める。


「見つかっちまったし、アタシたちも帰るかね」

「叱られない?」

「山神さまは、そんな狭量じゃないよ」


 十歩を遅れ、狗狼の後へ続く。すると不意に、ぽんとなにかが放り投げられた。

 目の前の雲が、指に挟んで受け止める。果たしてそれは、獲れたばかりの山鳥だ。大きな図体は、三人で分けても十分に違いない。


「また今日か明日の夕餉に使え」

「毎日ありがとうございます」


 恭しく頭を下げる雲に、菫も慌てて倣った。構わず先を行く狗狼を眺め、言葉の意味を問う。


「毎日なの? 料理に使う物はまさか、狗狼が獲ってくれてたの?」

「そうだよ。いかに狗狼でも、命ばかりは勝手に拵えられないからね」


 遠い海や、都にしかない食材も多くあった。狩った者に感謝もせず、口にし続けたことが恥ずかしい。

 今度は雲の物真似でなく。菫は深く深く、腰を折った。

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