第28話:癒えぬ心

「寒い……」


 光は、土間の高い窓から一条。他に壁のあちこちへ、薄っすらと隙間が見える。そのせいか、こちらの土間は僅かに風を感じた。

 蹲り、長持の縁から辺りを覗く。粉を吹いたような手触りと、黴の臭い。これがあの祠かと、不快な思いに囚われる。


 きょろきょろと見回すうち、奥まった影の部分も幾らか見えるようになった。

 菫の寝起きする部屋は、奥の灯り取りを打ち付けられているようだ。文机や衣を掛ける調度は見当たらない。


「雲?」


 狗狼の部屋へ続く縁と、土間を脇に入った厨。どちらを向いても、いっそう暗い。外の緩い風は、葉の一枚を揺らす音さえ伝えず。暗い祠を菫の声が、僅かにこだまする。


 雪の寒さとは別の、ぞくぞくとした感触が厭らしく背を撫でる。心細さに、雲を呼んだのを悔やんだ。隠れて脅かそうというなら、あの悪戯好きがこれほどの猶予を待てるはずがない。


「外に――」


 閉ざされた祠の中にも、陽の光は差し込む。ならば戸を開ければ、広々とした世界がある。

 以前は一人でも、山中の濃い茂みへ潜み続けられた。それこそ夜を徹すことさえ。それが今は、とにかく闇から逃れたい。頼る背中、握る手のないこの場所へ、留まっていたくなかった。


っ」


 長持から出した足を、冷気の槍が刺す。凍り付いたように硬い土間が、菫の逃避行を阻もうとした。

 だが痛みより、恐怖が勝る。


 ――嫌だ。暗いのは嫌だ。

 どこかから。目の向いていないあらゆる死角から、見られているように感じてしまう。早く逃げなければ捕まってしまう。そう思えてならない。

 だから、走った。十歩足らずを全力で駆け、板の張られた格子戸に取り付く。


「開いてよ!」


 定期的に訪れる者のある場所だ。戸の立て付けに問題のあろうはずはない。けれども焦って、がたがたと引っ掛けてしまう。

 どうしようもないほど分かる。菫の心は、なにも癒えていない。狗狼と雲が、紛れさせてくれた。ただそれだけだ。


「もうっ!」


 終いに、癇癪めいた声を叩き付けた。すると抵抗なく、すうっと戸が開く。隙間へ身体を捩じ込むようにして、表へ出る。そのままよろよろと、積もった雪へ手をついた。


 四つん這いで、ぜえぜえと。しばらく息を整えていると、気分も落ち着いてきた。まだまだ天頂へ昇りゆくお天道さまが、ほんのりと背中を温めてくれる。


「ふう」


 ほっと息を吐き、雪に座った。動くたび、細かな雪が綿毛のごとく舞う。

 一つかみ、握った雪を放り投げる。と、陽射しを撥ねてきらきら光った。触れた心地も、土間の冷徹さとは比べるべくもない。むしろ暖かく感じて、何度も繰り返したくなった。


 ぎゅっと握っても纏まらない雪を、手製の吹雪に仕立てる。他愛もない遊びを、祠の壁に繰り返す。

 やがて思い出した。古びた様子でも見て来い、と言われたことを。


「でも、今さら見てもね」


 見上げると、梁や垂木が厳重に組まれている。屋根もかなり高いところまで、細長く突き立った。

 菫の住んでいた小屋など、どうにか立てた柱へ斜めに板を載せただけだ。祠の造りを見ると、よく潰れなかったなと感心してしまう。


 建物の良し悪しは分からない。言えるのは、やはり相当に古いこと。狗狼が住んでからでも二、三百年は経つと言っていた。褐色が白くぼやけて、灰の色に近くなっている。木彫りの装飾の、欠けている部分もあった。


「壊れたら、どうするんだろう」


 あの世にあると言う、狗狼と雲の住む祠は真新しかった。だがこの世の祠は、当たり前に朽ちていく。

 もしもこちらの姿が無くなれば、あちらにも関わりがあるのか。後で雲に聞いてみようと考えて、はたと気付く。


 ――わたし、どうやって戻るの?


「ねえ、雲。どこかで見てるの?」


 進ノ助が訪れたとき、菫の姿は見られなかったらしい。けれども幼馴染の姿は、至って普通に映った。

 それなら雲からは見えているに違いない。いや、必ずだ。先の慌てたさまも、すっかり見られた。


「雲、意地悪ね」


 熱くなった頬には気付かぬふりで、機嫌悪く装う。が、彼女の反応らしきものはない。


「もう、どうしろって言うの」


 雪の上へいつまでも座っていられない。腰を上げ、尻に付いた雪を手探りで払う。

 すると山を下りる方向から、雪を踏む音が聞こえた。


「なんだ、雲。いつの間にそっちへ行ったの?」


 やはり企みがあったのだ。そう考え、振り返りざま驚かぬように身構えた。「せえの」と勢いを付け、ひと息に振り向く。

 しかし、そこに居たのは雲でない。


「どうして……?」


 巻いた簑を抱きしめるように、全身を白くして。掻き分けた雪の合間へ、呆然と立ち尽くす進ノ助。

 真ん丸になった目がぱちぱちとまばたきをして、わっと感情が溢れる。


「菫、菫だよな。なんか凄い格好してるけど、菫に間違いねえよな!」


 歓喜の声だ。少し震えているが、進ノ助は再会に顔を輝かせた。菫はなんとも答えられない。何度も名を呼ぶ幼馴染の声に、ひと言たりと。


「なにか言ってくれよ! いや、でもいいや。山神さまが、願いを聞いてくれたんだ。そうだろ?」


 もふもふと、くぐもった音で雪を踏み、進ノ助は近付く。菫は首を横に振り、手を突き出した。

 来るな、と。声が出ない。


 鳥居の向こう。四十歩ほどの距離を、倍の手間がかけられる。それでも少しずつ、進ノ助は距離を縮めた。

 菫は動けない。後退ろうにも、立ったまま腰が抜けた心持ちだ。


「菫、会いたかった!」


 心の底から嬉しそうに、両手を広げた進ノ助が迫る。

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