第18話:疑問と答え

 翌日。夕暮れが近付いても、進ノ助はやって来なかった。歌詠みを終えた菫は、夕餉の支度に取りかかる。


「塩焼き?」

「そうだよ。生の魚に塩を付けて焼くとね、身がふわりとするし、ひれが綺麗に残るのさ。見栄えも味の内だよ」


 厨の囲炉裏を前に、雲が取り出したのは桜色をした大きな魚だ。幻に見せてもらった宴でも、膳に乗っていた。


「こいつは鯛って言うんだ。めでたい、ってね。祝いごとには欠かせない」

「うまいことを言うね。でもこんな大きなの、この山じゃ見たことないよ」


 菫の手を三つ連ねたほどの山女魚ヤマメなら、釣ったのを見たことがある。しかし鯛というこの魚は、幅も長さもそれ以上だ。


「あっははは。そりゃあそうさ、鯛は海にしか居ないんだから」


 さも愉快そうに、雲は笑う。だが彼女に笑われても、なんら不快には感じなかった。思いがけぬ菫の言動を楽しんでいるだけで、無知を馬鹿にする素振りがないから。


 それは狗狼にも、似たようなことが言える。こちらから問わねば、ほとんど口も利かぬ無愛想。しかし根底のところで、菫の気持ちを慮ってくれる。

 撫でられた感触が、まだ頭に心地良く残る気がした。


 引き換え、進ノ助はどうか。

 なるほど菫を思い、ここまでやって来たのは後悔したのだろう。東谷の面々にも秘密に違いない。

 生涯の宝とさえ言うような弓を差し出したのも、並々ならぬ覚悟だ。


 ――でも。

 あの夜、菫は怖ろしかった。一対一でも敵わぬ男どもに取り囲まれ、なにをするとも告げられず運ばれた。

 きっとこのまま、わけも分からず死ぬのだと。覚悟でさえない、絶望だけが胸に溢れた。


 それを面と向かって問えば、なんと言うかと思う。

 昨日、あの幼馴染は言った。あのときは仕方がないと思った、と。きっとそれが答えとするなら、菫はいったい進ノ助の、なにを信じれば良いのだろう。


「海にしか? 塩からい水が好きなんて、よっぽど偏屈なんだね」

「そんなことはないよ。鯵やら鰯やら、干物は知ってるだろ? あれも海だけさ」

「へえ、そうなんだ。だからあんなに塩が強いんだ」


 納得して頷くと、雲はまた声を上げて笑った。なぜだか分からないが、彼女が楽しいのはいいことだ。

 菫も釣られて笑えれば、もっといい。けれども今は、ため息しか出てこない。


「ふう……あっ」

「ん、どうした?」

「ううん。ゆうべ眠りが浅かっただけ」


 自分でも驚くほど、大きな声が出た。眠れなかったのは本当だ。進ノ助が去って以降、どうも落ち着かない。

 纏め役の顔を潰すのも厭わず、ここまで来た気持ちを汲むのか汲まぬのか。というのと別に、もう一つ理由があった。


 幼馴染が狗狼へ言った中身が、どうも気になる。「だから山神さま、返してください。罪はどうにか、俺も肩代わりするから」と。

 既に菫が進ノ助の持ち物のような、その言い方はさておくとして。罪を肩代わりするから、と山神に頼んでいる。


 これでは菫の罪とやらが、まるで狗狼に向けたもののようだ。

 件の狩りの日。大納言か、あるいは東宮なる人物以外に、誰かを傷付けたり怒らせたりした覚えはない。もちろん知らぬ間にということもあろうが、それで狗狼に害が及ぶとは考え難い。


「そりゃあいけないね。今から休むかい?」

「ううん、大丈夫。ちょっと眠いだけだから。今晩きちんと眠れば、元通りだよ」

「ならいいんだけど。無理をするんじゃないよ」


 疑念をそのまま、雲に聞けばいい。そうすれば必ず、答えが出るはずだ。彼女には分からずとも、流れで狗狼に聞けるはずだから。

 しかし出来ない。


「ねえ、雲」

「うん?」

「狗狼が記憶を消すのって、いつでも誰にでも出来るの?」


 もしも。菫の犯したなにかを、狗狼が消してしまったのだとしたら。進ノ助の言い分に、辻褄が合ってしまうのでないか。


「なんだ、連中のことかい? いつでも誰にでもとはいかないね。まず、相手に触れなきゃいけない」

「うん、それから?」

「それから。聞いたと思うけど、相手が強い感情を発してなきゃいけない。狗狼はそれを頼りに記憶を見るからね」


 触れるだけならば、今日までに幾度となく機会があった。感情を顕にしたのもだ。


「じゃあたとえば、わたしが眠ってる間には無理ってこと?」

「なんだ、まだ怖いんだね。でもそうだよ。あんたが寝てるとき、とっても可愛らしい良い子だからね。感情が見えないことには、狗狼にもどうも出来ない」


 やはり。菫は格段に気を配って、胸の内だけで「ほっ」と、安堵した。菫の知らぬ間に、雲も気付かぬ内にとは不可能ということだ。


「そう、残念。知らない間にされれば、覚悟も要らないかと思ったのに」

「アタシはたった今も、消したほうがいいと思ってるけどね。無理やりに決めなくていいさ」

「うん、そうする」


 太い竹串を刺した鯛は、囲炉裏の真上でじっくりと焼き上がりつつあった。香ばしい匂いもし始め、これは狗狼も自分から部屋を出て来そうに思う。


「そういえば狗狼は? 今日も部屋に篭ってるのかな」

「いや? 今はもう戻ってるけどね。さっきまで出てたよ」

「えっ、どこに?」


 思わず聞いてしまったが、神の行動を知ろうとは思い上がった行為かもしれない。しまったと肩を竦めるが、雲はきょとんとした顔をする。


「なにを鯱張しゃちほこばってんだい?」

「ええと、叱られるかと思って」

「そんなことで叱るもんかい」


 言った割りに、雲は「ううん」と唸る。やはり良くなかったのかと怯える菫だったが、やがて彼女は笑う。にやり、と一流の悪戯めいた顔でだ。


「狗狼がなにをしてるか、教えてやろうか?」

「う、うん」


 知りたい気持ちを否定出来ない。だがそれ以上に、雲の醸し出す空気に流されて頷いてしまった。

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