第17話:願いの対価

「山神さま!」


 切羽詰まった声で、進ノ助は狗狼へ呼びかけた。ここは贄と引き換えに、願いごとをする祠だ。当たり前ではある。

 しかしおかしい。

 なぜ、菫の無事をなにも言わないのか。どうして生きているのか、などと文句を付けられると思ったのに。


「勝手なお願いとは分かってます。でもどうか、菫を返してください。この間、生け贄に連れてきた若い女です。東谷に住んでた、俺の……」


 感極まったらしく、進ノ助は声を詰まらせた。全力で駆けた直後のように、荒々しい息を繰り返す。


 ――返せ、って?

 幼馴染の願いは、二重の意味で分からない。生け贄にされるとき、進ノ助は菫を取り押さえた張本人だ。

 それを無いこととしても、菫は目の前に居る。であればもっと違った言葉、違った態度になる気がした。


 まっすぐ狗狼を見据えた進ノ助には、まるで菫が見えていないように思える。

 互いの距離は、およそ二間。こちらが高い位置に居て、狗狼を挟むと言え、そんなことがあり得るのか。


「気付いたかい? この男の子には、あんたが見えてないんだよ。狗狼とアタシのこともね」

「――声も?」

「もちろん」


 菫の疑念を察したらしく、雲が言った。なるほど狗狼の後ろには、九曜紋と祈りの文言の書かれた札が掛かっている。進ノ助は、それを見ているらしい。

 いつでも逃げ出せるように落ち着かなかった足を、ようやく床へ着けられる。


「東谷を守るためって言われて、怖くて。じゃあ仕方ないって、そのときは思っちまったんです。でも、すぐに後悔した。どうすれば良かったか分かんねえけど、菫一人に被せちまうのは違うって」


 後ろめたさにだろう。進ノ助の顔は、徐々に下を向いた。


「あと何年かしたら、俺はあいつと結婚するつもりだったんです。だから山神さま、返してください。罪はどうにか、俺も肩代わりするから」


 いかにも慇懃な風に、長持へ手がかけられる。捧げ入れられたのは、弓だ。

 握りの下に、五寸ほど塗られた漆。山中で使うには意味のない、外連けれんだけの装飾を菫も覚えている。公家の間で流行りなのだと、しばらく自慢をされ続けたものだ。


「まだまだ半人前だけど、命をかけた弓です。これでどうにか、菫を返してくれやしませんか」


 そっと底へ置くと、元の位置へ戻る。土間へ額を押し付け、「お願いします」と願った。

 菫が戻るまで待つつもりか、進ノ助はそのまま動かない。聞き届けたはずの狗狼も、伏せた頭を見下ろし続ける。


 いつまで続くのか。さすがに菫も、知ったことかとは思えない。けれども進ノ助を視界に入れ続けるのは、心が重かった。


 ――今日は帰らないつもり?

 と幼馴染の覚悟を推し量ったのは、まだ四半刻の半分も経たぬころ。

 深い吐息が、「ふう」と聞こえる。


「また来ます。どうか、お願いします」


 おもむろに立ち上がった進ノ助は、ひとつ頭を下げて出て行った。捧げたのだから当然だが、弓もそのままに。


「なんだ、結構あっけなく帰っちまうんだねえ。日暮れくらいまでは居るかと思ったのに」


 拍子抜けしたという顔で、雲が言う。


「あの弓、そんなに大切な物なのかい? 嫁にしようと思った女と釣り合うくらいにさ」

「それはどうか分からないけど、無いと狩りには困るよ。進ノ助は弓で仕留めるのが得意だから」

「へえ。それならまあ、春までは要らないってことだね」


 あんな物で菫を渡せるか、と雲は言いたいようだった。その気持ちは嬉しいが、物と交換の対象にされるようで素直に頷けない。


「菫。一応聞いておくが、東谷に帰りたい気持ちはあるのか」


 進ノ助が帰っても、狗狼はまだ縁に座っている。菫からは表情の見えない口が、この願いを叶えるか否か問うた。


「ううん。村の景色に名残りはあるけど、あの人たちに会いたいとは思わない。ましてやあそこで暮らすなんて、とても」

「……そうか」


 正直な気持ちを、すぐに答えた。だというのに、狗狼の返事には少しの間があった。

 そうかと発する一瞬前に、大きな息も吐かれた。ほっと、なにか安心したような。


 ――戻したくないって思ってくれたの?

 狗狼は人間を好きではない。嫌いとまでではなくなった、と雲は言っていたが。

 それでも役目として、置いてくれていると思っていた。菫はそうと思わないけれど、狗神である己のせいと言って。


「また来ると言うのだ、もう少し様子を見るとしよう。当人が望まぬ以上、戻すことはあり得んが」


 すうっと立ち上がり、狗狼は自身の部屋へ顔を向けた。菫を横目にした格好で、なぜか手を伸ばす。

 避ける気持ちは欠片も芽生えなかった。どこへ触れるのであれ、狗狼が害を為すはずがない。


「心労をかけたな。雲にぬくい物でも作ってもらえ」

「あ、ありがとう」


 ぽんぽん。と、柔らかい感触が脳天に二度。撫でられたと気付いたのは、狗狼が二歩ほども歩いてからだ。


「雲、その弓は受け取る気にならん。焚き付けにでもしろ」

「仰せのままに」


 菫を労う言葉は、とても柔らかかった。しかし進ノ助の弓への処遇は、ひどく寒々しい声が発せられた。

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