第16話:狗神の仕事

 月が高く昇っても、宴は続いていた。雲の手は休むことなく、食い物を口へ運び続ける。膳からはみ出すほどの焼き魚。拳ほどもある、歯ごたえの良い貝。松の香りの素晴らしい、澄んだ汁。


 なによりは、ほくほくとした小豆の詰まる饅頭だ。菓子なるものを初めて食べたが、こんな旨い物があって良いのか、信じられない。雲の見せる幻というのに、菫は匂いも味も存分に堪能した。


 ――椿彦と隣り合って食べれば、もっとおいしいのかな。

 と、あらぬ妄想も広がる。


 狗狼はと言えば、同じ時間をただじっと過ごしていた。さほど食うでなく、飲むでなく。

 元々鋭い視線を尖らせ、人間を見続ける。


 ――やっぱり嫌いなんだ。

 菫に向ける目とは違う。それが面前でだけ装ったものか、他の人間と区別されているのかは分からない。


 いや、類推は出来る。

 行き掛かる人々が、よく狗狼に声をかけた。御所に出入りする男なら、それは当然なのだろう。

 しかし給仕の女に誰かの女房や奥方までが、丁寧に挨拶をする。年齢もばらばらだ。連れの男も不思議そうな顔をするが、問われれば皆「遠縁で、昔世話になった」などと答えは似ていた。


 誰ひとり、そうとは言わない。だがきっと、彼女らは菫と同じだ。どこかの村から、生け贄にされた女たち。

 狗狼はそれにも、不機嫌そうに答えた。「ああ」とか「うん」とか、会話にもならぬ声だけを発して黙り込む。

 それでも女たちはもう一度頭を下げて、その場を去った。


 ――やっぱり嫌いなんだ。

 先と同じことを、違う意味で、菫は噛みしめる。


「……どうだい?」


 やがて人の数も減ってきたところで、狗狼が立ち上がった。

 帰るのだろうと思うと、雲の声がした。これは幻の中でなく、現実の菫にかけられた言葉だ。


「うん、なんだか凄かった。極楽ってこんなかなって思ったよ」

「そりゃまた大層だね。そんなのいつかは行くんだから、慌てて見る必要はないよ」


 宴の夜が掻き消え、からからと笑う雲が映る。思わず、釣られて笑いそうになった。

 しかし笑えない。笑うまいと、堪えているわけでもないのに。上がりかけた頬と口角が引き攣り、胸に鉛が落ちてしまう。


「ねえ、雲。狗狼はどうして人間の身分を持ってるの」

「んん? どうしたんだい、急に。それはアタシもよく知らないけどさ」

「雲は楽しいって言ったけど、狗狼は楽しそうじゃなかった」


 怪訝に首を傾げた雲は、問われて「ああ」と声を上げる。合点がいったと、頷きもした。


「まるきり仕事だからね。主上って神さまの親分に、狗狼はこの辺りを任されてる。でも役目を果たすには、人間が嫌いだとか言ってられない。大きな動きを知るには、御所へ行くのが一番ってわけさ」


 いともあっさり、雲は暴露した。狗狼は人間を嫌っていると。

 これにはさすがに、反応なく居られなかった。平静でいようと思ったが、自身の顔が曇るのを抑えられない。


「驚いたかい? 薄々は勘付いてたろ?」

「そんなの、わたし聞いていいのかな」

「いいんだよ。面と向かって聞いても、すぐに答えるはずさ」


 とは言え大きな声では言えぬと示すように、雲は座った膝と膝を合わして躙り寄った。


「狗狼の仕事は聞いたね?」

「この世の理? を回すことって」

「うん。それは要するに、理不尽のないようにするってことだ。偏りを無くすと言ってもいい」


 よく分からない、と素直に答えた。菫が生け贄にされたのは理不尽に違いないけれど、狗狼は自分のせいでと注釈を付けていた。

 それと違うのか、同じなのか。


「たとえば猪がこの山へ、千も万も現れたとしようか。大変なことにならないかい?」

「そうだね。草の芽が食い尽くされて、畑も荒らされると思う」

「そうさ、それは猪に限らない。蟻も蝶も、兎も狼も、人間もだよ」


 数の管理をしているということか。そう思い、聞く。すると否定に首が振られる。


「結果を言えば、数勘定ってなるかもしれないね。でもそうじゃなくて、誰かが飛び抜けて得をしたり、損をしたりしないようにするんだよ。そうすりゃ仲良く、豊かに暮らせるだろ?」


 誰かと言っても猪の一頭、人間の一人ではないらしい。獣のそれぞれ全体でうまく行っていればいいと雲は話す。

 山崩れや鉄砲水でも、一度に多く死ぬことある。そういう事態を失くすことは出来ないが、また増える手伝いをするのだと。


「そんなことをやってるとね、人間に殺されたとかはどうでも良くなったみたいだよ」

「殺された? 狗狼は人間に殺されたの?」

「そうだよ。ずっと昔、何百年か前。狗狼はただの狼だった。この山で人間に殺されて、狗神になったのさ」


 どうしたら狗神になれるのかは、主上に聞いとくれと雲は茶化す。

 それはいい。菫は別に、神さまになりたいとは思わない。そんなことより、狗狼の過去が気になる。

 もっと聞きたい。いやそれは不躾だ。二つの気持ちが、激しく戦った。


「あれ?」


 ふと。声を上げた雲は、首を土間に向ける。そちらは障子戸が閉まっていて見えないが、その向こうに。


「どうしたの?」

「大したことじゃない。誰か来たようだよ」


 その言い方は、狗狼のことでない。ならばよそから来た客かと、立ち上がる雲を見送った。

 だが、ここは山神の祠だ。それに気付き、障子戸を開けようとした手を止めさせる。


「どうしたんだい?」

「願いごとをしにきた人間でしょ。顔を見せちゃ駄目だよ」

「なるほどね」


 にっこりと笑う顔に騙された。思い止まってくれたと腕を放した途端、雲は障子戸を勢い良く開ける。


「雲!」


 思わず声を上げてしまい、菫は迂闊な己の口を手で押さえた。

 部屋の外。縁には狗狼が座っている。土間を挟んだ入り口の戸は、まさに誰かが入ってくるところだ。

 辺りを気にしつつ、身体を滑り込ますようにしたのは若い男。長持まで駆け寄り、跪く。

 狗狼を見上げたその顔を、菫は知っていた。


「進ノ助――」

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