第15話:都の風景

 毎日の夕餉は、菫が拵えることとなった。日がな一日、琴やら歌やらを習い、締め括りに料理をする。どれも懇切丁寧な、雲の指導付きで。

 そうして続けていれば、どんなことも要領が掴めてくるものだ。すると得意とそうでない見分けもつく。なにもかも雲のように、言う通りにはいかない。


「ねえ雲。箏の琴って、どうして十三本も糸があるの。次にどれを弾くのか、今どこを弾いてるのか、分からなくなるよ」

「どうしてって、その音が要るからだろうさ。作った理屈まで、アタシも知らないよ。やってりゃ慣れて、見なくても弾けるようになるって」


 中でも苦手に感じたのは、貴族の宴に欠かせぬという琴の演奏だった。雲の手本を聞いたときには、爪弾かれる美しい音色を自分もと意気込んだのに。

 ただ一音。一本の糸を押し引きしただけでも、雲のそれは奥深く澄んでいる。だのに菫がやれば、腐った落ち葉で淀むような気がした。


「やめたくなったらいつでも言いな。アタシはあんたの望むまま、たいていは教えてやれる。でもあんたの望まないもんを、やれって押し付ける気はないんだ」

「やめない」


 正直なところ、やめたいとは何度も考えた。どうして思うまま、良い音色を出せないのか。ゆったりと一音ずつ順に弾くだけの、春待ちの唄さえ最初で躓く。


 失敗が続くと、自分が誰より劣った人間のように思えてしまう。

 誰よりとはやがて、東谷の人々の姿に見えてくる。こんなことも出来ぬなら、せめて贄として役に立てと。口々に責め立てるのだ。


 料理や裁縫と違って、貴族へ嫁がねば全く意味がない。などと理由を付けて、やめると言いかけた。

 しかし思い留まっている。それは幻の村人たちにまで負けたようだから。会いたいとも仕返しをしたいとも思わないけれど、彼らの思うがままにされるのは二度とごめんだ。


「雲。宴って楽しいの?」

「どうだろうねえ。やる人間にもよるんだろうが、アタシが見たのは楽しかったよ。ひどいのは酔っ払いが騒いで、滅茶苦茶らしい」


 秋の祭りに酒を喰らい、でたらめに踊り狂い、ただただ騒ぐのは珍しくもない。

 琴や三味線を鳴らし、歌を詠み合う。そこへご馳走や酒の振舞われる、貴族の宴というのが想像に難かった。

 どんなものだか分かれば、また琴の印象も変わるかもしれない。そう思い聞くと、雲は目を閉じて答える。


「えっ、宴に出たの?」

「そうだよ、言ってなかったかねえ。狗狼は賀茂宮かものみやって、人間としての素性も持っててね。御所へ行こうと思えば行けるんだ。アタシはその世話役の女房ってことで」


 化けられるんだよと、雲は胸を張る。しかしそのまま、しばらくなにも言わない。瞼の裏へ見ていよう追憶は、菫こそが見たいのに。


「そうだ」

「え、なに?」


 突如。切れ長の目を、きっと開けた雲は両手を叩いた。驚いて問うと悪戯っぽく、にんまりと笑む。


「――なに?」

「菫。あんた宴を見てみたいかい?」

「そりゃあどんなものか、見ないと分からないもの」

「じゃあ見せてやるよ」


 また無茶を言い出したものだ。飛鳥京までは女の足で、丸一日では辿り着かない。これからそこまで行こうというには、あまりにも軽い口調。

 それに菫の体調が万全となってはいない。痣のいくらかは薄まってきたが、しつこく痛みが残っている。なにより山を下りるとなると、胸の重さがいや増す。


「そんな急に。わたしは下りられないよ」

「心配ないさ、都へ行くわけじゃないから。だいいちこの時期、誰も宴なんかしてやしない」


 ではどうするのか聞いても、雲は答えなかった。代わりにもう一度「見たいんだろ?」と問う。それには、もちろんと頷く以外にない。


「じゃあそのまま座ってな、悪いようにはしない。アタシは人の物を預かるだけじゃなく、預けることも出来るのさ」

「う、うん?」


 琴を挟んで対面していた彼女は、立って菫の後ろへ回った。そこで座り、菫の首に指を添えた。

 つららでも当てられたように、ぞくっと背すじが震える。次は反対の手が、菫の両目を塞いだ。


「なにか見えるかい?」

「雲の指」

「おめめを閉じるんだよ」


 なにをやるにも楽しげな雲の言葉に、逆らおうとは夢にも思わない。素直に従うと、当然にこの世が闇に包まれる。


「さあ行っておいで。都の景色だ」


 思わせぶりなことを言われても、それ以上なにをされるでもなさそうだった。数拍ほどは待ったが、雲にも手違いのようなものはあるかもしれない。


「ええっと、どういう……」


 声に出して問うてみたが、最後まで言えない。暗闇のなかに、なにかが見え始めた。

 誰かの背中。菫の前を、背の高い男が歩いている。黒い狩衣に九曜の紋があるところは、狗狼かと思った。

 しかし違う。顔が狼ではなく、人間のものだ。


「なにか言ったか」


 男が振り返る。菫のことが見えているらしい。すっと鼻筋の通った、目付きの鋭い野性的な顔。やはりどことなく、狼を思わせる。

 どうしよう、なんと答えよう。迷っている間に、別の誰かが言った。


「なにも言うてはおりませんとも。賀茂宮さま」

「そうか」


 雲の声。そして目の前に居るのは、聞いたばかりの狗狼の別名。どうやら菫は、雲の見る景色を共有しているようだ。

 延々、左手に塀が続く。右手も大きな屋敷のようだが、歩く間に何本かの通りで途切れた。

 宴と聞いていた通り、どこからか人の声が聞こえる。琴と笛、それに三味線らしき優雅な調べも。


 いくつかの曲が巡り、春待ちの唄が聞こえてきた。それでようやく入り口が見え、狗狼は門番に小さく手を上げる。

 そこは大きな門だ。菫が両腕を伸ばしたとして、十人並んでも通れよう。上は狗狼の肩へ乗ったとして、庇にも届くまい。


「賀茂宮どの。これは珍しい、ようこそお出でくださいました」


 警備を担っているらしい公達が、案内を買って出る。態度を見るに、狗狼も相当に上の扱いのようだ。


 ――椿彦も居るのかな。

 似た年ごろを見て、思い出した。手入れされた植木の間を、砂利道が通る。歩く道々に見回したが、さすがに見つからない。


「賀茂宮さま、月が」

「うむ、見事だ」


 およそ正面に見上げて、満月が見える。篝火に煌々と照らされた行く先を、白く優しく包み込む。

 月の真下には、大きな池があった。縁を築石で固められ、周りに布が敷かれている。四、五十人も居ようか。誰もがそこで盃を持ち、新しい年の幕開けを祝っていた。

 これは今年か去年か、ともかく新年を祝う宴らしい。


「雲も爪弾いてくるか?」

「いえ私など、物の数にも入りますまい」


 狗狼は演奏をする一団を指して言った。答える雲は、いつもと違い淑やかに答える。

 新たな曲を、誰かが勝手に始めた。すると近くも遠くも関係なく、別の誰かが合わせ始める。先ほどまでの一団は、もう聞く側に回っていた。


 ――ああ、これがこの人たちの会話なんだ。

 もちろん言葉を駆使しての話も飛び交う。けれども口は、豪勢な料理を食うにも忙しい。

 だから集まる人々が片時も寂しくないよう、ずっと楽器が鳴らされるのだ。

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