第二幕:狗狼と雲
第14話:新しい日常
「こんなことが……」
土間の脇へ入った
正面に向き合い、にやと不敵に笑うのは雲。彼女の示した先にある物は、菫の想像を遥かに超えた。
「これでも、なにもかもってわけじゃない。だけど知識としちゃあ十分だ」
「わたし、塩しか知らなかった」
菫は使ったこともないまな板へ、貴族の料理に使う調味料が所狭しと並ぶ。
「こっちが黒塩、
「待って。雲、ちょっと待って」
両手にちょうど持てる小さな
「一度に覚えられないよ。お公家さまって、こんなにたくさんの味を使うの?」
「いや? 酢と塩と
やはり。それぞれの調味料にどれほど種類があろうと、一度に使うのはひとつずつらしい。ならば一纏めに覚える必要もない。
「からかって遊んでるってことね」
「そうだよ? アタシの役割りは、あんたを構って遊ぶこと。ちゃんと言ったよ」
「嘘。雲は物を預かるって」
大納言家の行列を見て、十日が経つ。菫の気分は、日に日に良くなった。毎日の薬湯のせいと言うより、人里と隔絶された祠の暮らしのおかげだろう。
「おや、きちんと覚えてるもんだ」
頬を膨らます菫を、雲はあっけらかんと笑い飛ばした。もうなんの気兼ねもなく、姉妹のごとく話してくれる。
「でもねえ、料理なんて教えるのはいいけど。公家の女房には必要ないんだよ?」
「なんでも知ってるに越したことはないって、狗狼が言ってたもの。皇子さまの奥方になるつもりはないけど、損にならないのはその通りだと思う」
狗狼の言った東宮の妻にという未来を、断ってはいなかった。乗り気はまったく持ち合わせず、己の意思もなしに否定するのは我がままと感じるから。
「そうだね。たくさんの女房へ指図する身になっても、荒くれの仲間入りをしても、料理は邪魔にならない」
「うん、教えて。焼き物と、
毎日ひとつずつ、多くのことを雲は教えてくれた。平仮名に、歌。裁縫、舞い。
菫には存在すらも知らなかったのがほとんどだ。なにが楽しいのかまだ分からないが、新しいことには興味が湧いた。
少なくとも説明を理解し、見様見真似でやる間は、余計なことを考えずに済む。
「だねえ。でもまず、あんたの腕を見せてほしいね。さすがに獲った獣を、そのまま噛み千切ってたわけじゃないだろ?」
「当たり前だよ」
まな板から調味料を退け、山鳥の羽根を毟る。腹を大きく裂き、臓物を取り除いた。
脚を束ね、細い縄で縛る。と、それを雲の目の前へ突き出す。
「終わり」
「えっ、もう?」
「慣れてるでしょ」
料理や裁縫が得意というもう一人には、まだ会っていない。けれども教わってみて、雲も相当なものだ。
誰しも得手不得手のあるはずだが、彼女には万能と言って差し支えない。
その雲をして、驚かせた。これは見込みがあるのでないかと、希望が持てる。勢いづいた菫は、別に置いてあった芋や青菜を引っ掴んだ。
「――うん、出来上がり。狗狼も食べてくれるかな」
山鳥は囲炉裏に翳し、遠火で焼いた。念入りに脂を落としたので、黒光りするほど。
芋と菜っ葉は鍋にぶち込み、塩で煮込んだ。どろどろに溶け、柄杓に掬ったのがふるふると震える。
「あ、ああ。あいつは喜んで食うんじゃないかい。たぶん」
「そうかな。持って行ってみるよ」
平らな鉢に山鳥を。雅な椀に芋粥を。米だけは雲が蒸してくれたので、それも合わせて膳に載せる。
いざ運ぼうとすると、意外に難しい。揺らすまいとすると、余計にかたかたと小刻みな音が鳴った。
「手元を見ないで、行く先を見るんだよ」
厚く重ねた着物のせいで、動きにくい。しかしそれも経験と言われれば、そうだなと思う。
狩りの技とて、最初は難しかった。こんなの出来るもんかと投げ出さず、続ければ上手くなれた。
――なにもかも教われば、雲みたいになれるかな。
まずはそれが、菫に芽生えた目標なのかもしれない。
「狗狼。夕餉だよ」
「うむ」
縁を歩き、障子戸の前へ座り、軽く叩いて用件を告げる。それにもやり方があると、既に習った。
「物言いは追々さ」
「あれ、違ってた?」
「気にしない」
後ろで見守る雲を振り向いたが、早く行けと手が振られる。師の言うことだ、素直に従った。
「今日は菫が拵えると聞いたが」
「うん。雲がね、わたしの腕を見たいって。ここで食べるのみたいに綺麗じゃないけど、作ったんだ」
「うん、香ばしい匂いだ。いただこう」
大量に蝋燭の揺らめく部屋で、狗狼はいつもと同じに目を閉じていた。菫が口を利くとすぐさま、瞼を開けて鼻を鳴らした。
「これは……」
箸を手にした手が、ぴたりと止まる。存分に嗅いだはずの鼻が、再び動き始める。
「山鳥を焼いたのと、芋粥だよ。なにか変な臭いでもする?」
「い、いや。いただくとも。食えば良いのだろう」
なにか深刻な覚悟でも決めるように、狗狼は大きく息を吸い込む。それを吐くと同時、山鳥を頭から口へ放り込む。
ばりぼり。ばりぼり。骨を砕くような音が響き渡る。狼であるから、骨まで食うのも不思議ではない。
「う、うむ。煤けた臭いが堪らんな」
しかし不思議なことに、そう言って狗狼は骨を口から取り出した。折れた箇所もない、綺麗に身を吸い尽くした物をだ。
「よし、次は芋粥だったな。さあ、我は食うぞ」
「そんな大袈裟な。誰も取らないから、ゆっくり食べてよ」
よほど腹が減っていたのか、狗狼は目一杯の大口を開け、椀の中身を掻き込む。いっそ投げ入れたと言えるほどの勢いで。
「ん。んん」
「駄目だよそんなに急いじゃ。たくさんあるから、もっと持ってこようか?」
芋粥は山へ入る前によく食った。そうすれば丸一日は腹が持つ。よく煮込んで、粘りを出すのがコツだ。
そんな物を慌てて食って、大丈夫だろうか。心配するのと別に、悪い気はしない。
「んん。ん。いや、我はそれほど大食いではない。今日はこれで十分。馳走になった」
残りはゆっくり食うからと、部屋を出て行くように狗狼は言う。それはもちろん、彼の自由だ。
部屋を出たところで「雲」と。彼はなにか用を思い出したらしい。
「菫の料理だがな、うまかった」
「そりゃあ良かった」
「もしこれ以上を望むなら火加減と、素材それぞれの味を教えてやるといい」
やはり山神の評価は厳しいようだ。だがこれ以上を望むならとは、悪くないのでないか。
――やっぱり雲に、しっかり教わろう。
思いを新たにする菫とは裏腹に、雲はなぜだか笑い転げていた。
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