第13話:何者になるか
すぐに祠へ戻り、菫は土間で湯をかけられた。かまどへ火の気もないのにだ。
「後は任せる」
「あいよ」
湯を持ち出し、大量の手拭いを縁に置いた狗狼は、とっとと自身の部屋へ引っ込んだ。応じた雲は菫を縁に上げ、小袖を剥き、ずぶ濡れの身体を素早く拭き上げる。
「悪く思わないでやっとくれよ。あんたの身体を拭くのに、気を遣ってんだよ」
「狗狼が?」
「人間からはそう思えないだろうけど、あれでも男だからね」
あれも狗狼なりの配慮と擁護しつつ。単衣を着せられ、寝床で衾を掛けられるまで、気付けばいつの間にという域の早業だった。
いまだ吐き気の続く菫には、狗狼のことより雲の手際がありがたい。
「ほら、薬湯だよ。飲めば落ち着くから」
ほんの僅か、彼女は土間へ消えた。すぐに戻って寝床の脇へ座り、大ぶりの湯呑みを差し出す。
受け取って覗くと、なにやら草の葉のどろどろに溶けた物が入っている。相当に長く煮込まねば、ここまでなるまい。
「悪かったねえ、あんたの村の連中が居るなんて」
「ううん、仕方ない」
「まあまあこれでしばらくは、ゆっくり休んでなきゃってことさ」
飲めばきっと、ひどく苦い。臭いからはそう思えた。しかし雲の用意してくれたものだ、何度か呼吸を整えただけで覚悟を決める。
ひと思いに飲み干してやろう。勢いをつけ、湯呑みをぐいと傾ける。
「これ、おいしい」
「そうかい? なら良かった」
木苺のような酸味と甘み。その上を、喉を冷やとさせる不思議な風味が抜けていった。
「でも、違うの」
「違う? 他に欲しい物があるなら、言っとくれよ」
「あ、そうじゃなくて。東谷のこと」
空になった湯呑みを取り、雲は「うん」とだけ返す。菫が逆の立場なら、無理をするななどと妙な気を回すだろうに。
こちらが話したいことは、そうと知っているように邪魔をしない。
「たぶん、だけど。分かったの」
「なにをだい?」
「わたしが生け贄にされた理由」
菫の身と引き換えに村人たちが願ったのは、東谷の障りを払ってくれと。理由を聞けば、菫が悪いのだと答えがあった。
つまりそれは、生け贄を使ってまでも避けたい災いを菫が招いてしまったということ。
「たしか大納言てね、御所でもかなり偉いほうなんだよ。その上、皇子なんて人が居たんでしょ。きっとわたしが、怒らせちゃったから」
「そうなのかい? あんたが誰かを怒らすなんて、ちょっと想像がつかないけどね。なにがあったか、話してみなよ」
ならば仕方がない。悪いのは菫という言い分に、文句を言う筋合いもない。納得をしても、虚しさに涙の滲むのは無意識だった。
隠すことでなし。大納言とのやり取り、それから椿彦と遠吠岩に登ったことを話した。その後
聞いた雲は難しげに顔を歪ませ、唸る。
「ううん……」
「どうしたの?」
「そんなことで村の一つを潰そうなんて、尻の穴の小さいことだね」
雲にはそう思えるらしい。けれど人間にとっては、当たり前のことだ。公家の機嫌を損ねたなら、下々はなにをされても文句を言えない。たとえそれが、どんな理不尽でも。
「まあ、それはいいんだ」
「いいんだ?」
余計な話だったと示すように、雲は目の前の宙を手で払う。
「気になるのはそうと知って、あんたの気分が良くなるかってことだ。なんだつまらないって、笑えるんならいいよ。過ぎた話だからね」
「それは……」
ない。
理由に納得のいくことと、連れ去られた日の恐怖は別だ。現にこうして話すにも、ぶり返しそうな吐き気をごまかし続けている。
顔を合わせでもしたら、狂気に陥るのではとさえ思う。
「なら、連中があんたにしたのは許されないよ」
発しなかった声を読んで、雲の言葉は冷たい。凛とした面差しに、冷気の纏ったとさえ思わすように。
「駄目だよ! わたしが悪いの、東谷に酷いことをしないで」
「菫は優しいね。そんなこと言われたら困ったアタシのほうが、あんたを食っちまいそうだ」
くすくすっ、と雲は笑う。そうして彼女の冷たい手が、火照る菫の頬を撫でた。
「大丈夫。腐ってもアタシは、山神さまの使いっぱしりだ。腹が立つからって、誰かに非道は働けないのさ」
「そう、良かった。でも嬉しいよ、雲がそうまで思ってくれてるなら。この祠へ来れたのは、わたしに嬉しいことかもしれない」
と言った半分は、紛れもなく本心だ。もう半分は、そうとでも思わねば、やっていられない。
胸に燻る恐怖は、なにも過ぎてなどいないのだ。
「うん、分かった。安心しな、東谷に手を出したりしない。手を出すのは、あんたにだ」
「わたしに?」
どういう意味か。問い返したのに答えず、「おおい狗狼」と雲は呼んだ。障子戸を開け、そこから首だけを出して。
自身を使いっぱしりと言い、上役のはずの山神を。
「なんだ、もう落ち着いたのか」
「半々だね、そのためにあんたを呼んだのさ。菫の怖れは持ってなくていい物だ、消してやっておくれよ」
「容易いことだが、当人もそれでいいのか」
部屋の入り口に立つ二人が、寝床に座る菫を見下ろした。画になる二人だ。夫婦と言われたら、今からでもそう思える。
「怖れを消すなんて出来るの? 本当ならやってほしい」
「出来る。ただ、怖れる感情だけを消すなどと都合の良いものでない。元になる記憶を消すが、良いのだな?」
記憶を消す。難しい言葉で意味が分からなかったが、噛み砕けば思い出のことと雲は言った。
「思い出なんていいものじゃないよ。消したらなにか困るのかな」
「さてな。少し見せてもらうぞ」
なにをどうと説明もなく、つかつかと狗狼は枕元へ歩み寄った。床を擦る音もなく座り、毛むくじゃらの手が菫の額へ伸びる。
「……なるほど」
「なに?」
「我は人間の記憶を読める。なにもかもでなく、今の感情を支配するようなものだけだが」
またよく分からない。雲を見ると、苦笑してまた教えてくれた。
「狗狼が主上にもらった力なんだよ。喜怒哀楽のどれも、強く感じ過ぎれば話も出来ない。生け贄になったような人間は、大抵そうだ。だから菫の心に持て余すような思い出だけは、勝手ながら覗き見られるのさ」
心に持て余すと言われ、なんとなく通じた。つまり普段、暑いとか寒いとか、それで温かい物を食べたとか。そういうどうでもいい感情や記憶までは読み取れないのだろう。
「お前の恐怖は、東谷の村人と強く関わっている。であれば村人に関わる記憶を、全て消すことになる」
「すると、どうなるの?」
――いっそそのほうが清々するかも。
すぐに感じた、正直なところはそうだ。菫を理由に雲が非道を行うのは勘弁だが、また仲良くしてもらえると思うほどめでたくもない。
「これは我の推測だが。お前の生きた内、東谷の関わらぬことがどれほどある? 皆無でないのか」
「それって――わたしの思い出は、一つも残らないってこと」
「おそらく」
特に重々しさもなく、むしろ当然とばかり狗狼は頷く。
「話すことや箸を使うこと、身に着けたものはまた違うのでな。生きるのに不都合は生じん。記憶を消した後のお前が、果たして何者か。問題はそれだけだ」
それでも良ければいつでも言えと、狗狼は言い残して部屋を去った。見送り、障子戸を閉めた雲が、代わって枕元へ座る。
「決めるのはあんただ、無理強いはしない。でもアタシは、消したほうがいいと思う。艱難辛苦を乗り越えて強くなるとは言うけどね、あんたのそれは要らないもんだよ」
背すじを伸ばし、真っ直ぐに見据え。雲はきっぱりと言った。
――わたしもそんな気がする。でも。
記憶を消した後の菫が、何者になるのか。狗狼の言葉が、耳から離れない。
―― 第一幕 終 ――
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