第7話:濃い色を纏う
雲の膝は柔らかかった。空へ浮かぶあのふわふわに触れれば、本当にこんなだろうというくらい。
けれどもまったく、熱を感じない。生きて動く者が、これほどかというくらい。布越しに雪へ触れたようで、火照った頬にはちょうど心地良かったが。
「ところでさ。いつまでも丸出しじゃ、風邪をひいちまうよ?」
泣き止むまでの幾ばくか、雲は声を発しなかった。
擦りつけていた顔をようやく上げると、すかさずからかわれた。事実だけに、ひと言も反論出来ない。
「汚れなんか必ず消してやるから、気にせず着てみなよ。ほら、最初は袴だ」
菫を立たせ、雲は調度から濃い紫の袴を持ってくる。彼女が動くと、なんだか花の香りがした。
「お香の匂い?」
「いや、牡丹さ」
破れた小袖を脱ぎ、真新しい生地に脚を触れさす。つるつるすべすべ、麻にはない感触がくすぐったくも気持ちいい。
素早く紐が結わえられると、なぜか裸の肩が叩かれた。
「あいたっ」
「張りのある、いい肌だ。元気に動いてる証拠だね。この分なら、傷も痣もすぐに消えちまうさ」
言われて見ると、何ヶ所か数えるのも億劫なほど変色があった。赤や青は過ぎて、どす黒い。
自分の身体というのに、むごさに目を逸らしたくなる。
――でも、痛くない。
皆無というわけでもない。しかし雲の叩いた、ぺちと可愛げのあった痛みのほうがもはや気になるくらいだ。
不思議に思って視線を向けると、雲は分かっているという顔で頷く。
「今度は単衣だよ。その上に
「わたし、こんなの初めて」
「誰だって、初めてはあるもんさ。やってみなけりゃ、嫌だってのも分からない」
どの衣も、濃淡の異なる朱の色だった。麻の小袖とは違うしっかりとした厚みが、僅かずつ肩へ増していく。
雲は誰かの着替えを手伝うのに、とても慣れている。紐の一つを結ぶにも、袖や襟の仕舞いにも、菫は手を出す隙がない。
「意外と重いだろう? でもいつか慣れるからね」
「うん」
「さ。最後は唐衣だ」
女房装束を着るには、随分と暇がかかると聞いていた。極端な話では、朝から始めて着付けるころには昼が過ぎるとか。
しかしここまで、実際には朝餉を食う暇もかかっていない。
「わあ、綺麗な緋の色」
「だろう?
調度に掛かったのを見るのとは、また印象が違う。内から段々に色濃くなるさまを、差し込む光に向いて照らしてみた。
「気が済んだら、そこへ座りなよ」
「まだなにかあるの?」
「腹が減っちゃあ、なにも始まらないからね」
雲から目を離したのは、指折り数えて十もかかる暇があったろうか。促されて振り返ると、そこにはもう食事の用意がされていた。
脚付きの膳に米、吸い物、酢漬け。贅沢にも汁には貝が沈んでいる。
「こんな綺麗な衣を着て、汚してしまうよ」
「汚れは消すって言ってるだろ。いいから食いな。どうしたら溢しちまうか、知るのも練習だ」
これほどの着物を着せたり、雲が親切にしてくれるのは、菫を元気付けんが為と思った。ぱあっと酒を飲むのと同じように、普段と違うことで紛らせようと。
だから菫も、提案に乗ったのだ。雲と話し、腕をどこに通すのかなどと考える瞬間だけは、怖ろしい光景を頭へ浮かべずに済む。
「練習? 練習ってなに?」
「ああ、悪いね。これを着せようって言ったのは狗狼なんだよ。もちろんアタシも、嫌々でやってるわけじゃあないけどね。あんたみたいな可愛らしい子、構えば楽しいに決まってる」
なんの練習かは、狗狼に聞け。結局のところ雲は、そう言うだけで答えなかった。菫のいいようにする。と言ったのは覚えているが、良からぬ企てでもありそうに感じてしまう。
それからまた、身体が強張ってしまう。これからの不安は、この祠へ居る理由と直接に繋がっている。貴族の着物を着せられて、呑気に遊んでいる場合でない。帰る場所も行く場所もない身空をどうするのか。
艶やかな朱塗りの箸を震わせ、唐衣の裾に幾らも染みを作ってしまった。
「じゃあ行こうか。なに、隣の部屋だよ」
「これ、放っといていいの?」
同じ食事を、雲も食い終わる。膳を片付けることもせず、彼女はすぐに立ち上がった。
「ああ、大丈夫だよ」
「わたし、着物を汚してしまったのにいいのかな」
「気にしない気にしない」
断る義理はない。分かっているだけに、膝を立てる気力がなかなか湧いてこなかった。
「あの、ええと雲。ちょっと待って」
障子戸が開かれ、白い襲が颯爽と靡く。菫の止めたときには、もう部屋前の縁にすっかり出ていた。
「なんだい? 待つのはいいけど、気の進まないことはとっとと済ませたほうがいいように思うよ。狗狼は偏屈だけど、悪いやつじゃない。いいやつでもないけど」
気休めの冗談のつもりか、雲は優しく笑む。
その向こうに、土間が見えた。ゆうべ狗狼の掛けていた、床几もある。すると当然、長持も。縁のすぐ下へ、漆の濃茶が鈍く光った。
――長持が新しい?
菫の思い出せるのは年季にくすんだ、お世辞にも綺麗とは言えぬ長持。けれども今そこにあるのは、職人が拵えたばかりのようだ。
「長持が――」
「うん?」
問うと雲も後ろを向き、またこちらへ直る。意味ありげに、ほんの少し首を傾げて。
「あれはずっと、この祠のある限りあそこにあるよ」
言い伝えによれば、何百年と続く祠。だのに新品の風合いを持つ長持。
改めて見回すと、建物のどこもが新しい。梁も壁も、無垢の柱も。素材の香りさえ残っていそうだ。
「狗狼は、神さまなんだね」
「そうだよ。ここら辺りの運気を左右するくらいには、力を持ってる」
たくさんの意味を篭めて、もう一度問うた。雲は間違いないと意味を含ますように、極めてゆっくりと頷く。
どうしようもない身なら、神に尋ねるのは順当だろう。どうせ他に道はないのだ、なにも選択肢のないよりはいい。
「分かった。でも不安だから、雲も居てね」
「いいともさ」
いかにも気安く請け負った雲は、すいすいと滑るように縁を進む。と思うとすぐに止まった。「ああそうだ」と、なにやら思い出した風に。
「ちょいと嘘吐きなのが玉に瑕だね。まあ気にするほどじゃない」
「えっ、それ狗狼のこと? 気になるよ、ねえ」
雲はそれだけ言って、もう振り返らない。裾を掴んで止めようとしても、一向に。
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