第6話:雪の襲の雲
再びの目覚めは、いとも眩しかった。朝の光に照らされているらしい。目に腕を翳そうとして、また唸る。
――そうだ。わたしは生け贄にされたんだ。
痛みに連れて、恐怖が蘇る。親しい村の面々が、地獄絵図の鬼にも見えた。
ただ先刻に比べると、身体は動く。ゆっくりとであれば、寝返りを打つのもどうにか。
「起きたなら、
また不意の声に驚いた。
ここは山神の祠で、狗狼と名乗る狗神が居た。ようやくそこまで記憶が追い付いたのに、声は女の物だった。
おそるおそる、目を開く。声のしたほうへ、たしかに女の背中がある。鳥居の形をした調度に、鮮やかな緋の
「ええと……」
「あんた名前は? 狗狼もまだ聞いてないって言うしさ」
横手の障子から差す明かりに、膝までもありそうな垂髪が艶めく。豪奢に輝く白の唐衣は、雪と氷を撒き散らすように輝いた。
「わたしは、菫」
「へえ、菫。可愛らしい名じゃないか」
「ひっ!」
名を褒めてくれた女が振り返る。と、菫は思わず引き攣った悲鳴を上げてしまった。
「んん? なにに驚いて。あ、そうか。アタシの顔だね。
女は狗狼のように、獣の頭をしてはいなかった。全身どこからどう見ても、人間の姿に違いない。しかし、顔や手が消炭色をしていた。
「ご、ごめんなさい。初めて見たから驚いて」
「だろうさ、ここへ来た人間はみんなそうだよ。すぐに慣れるから、アタシもうっかり忘れちまう」
ここは狗神の住む場所で、この女も準じたなにかなのだろう。それなら驚くことはない。
などとすぐに呑み込めるものでもなかったが、どうにか自分に言い聞かせる。
「アタシは
「あ、ありがとう」
気忙しい喋り方だが、悪い人間ではなさそうだ。いや人間でないのかと思ったが、それは些末なことだろう。
「でもわたし、生け贄なのに」
「うん。ここへ来た人間ってのは、みんなそうだよ。しかしどうして人間は、生け贄っていうと女を寄越すんだい?」
「さ、さあ」
どうしてだろう。律儀に考える菫から、掛けられていた布が引き剥がされる。すると温もりが一気に逃げて、寒さに震えた。
「さあさ、いつまでも片付かないから。とっとと着替えて、朝餉を食べて、気がかりは狗狼に聞いてきな」
「着替えって。それ、わたしが着るの?」
「当たり前だろ。アタシがこの上に、まだ重ねるとでも思ったかい?」
話す間に
着る前を見たのは初めてだけれど、これが貴族に仕える女房の装束とは知っている。遠目に見かけた姿に、憧れたこともある。
「でもそんなこと」
「いいからいいから。アタシはあんたの世話をすると決まってんだよ。難しい話は狗狼の役割りさ」
――あんな綺麗なの、わたしなんかが触れたら汚れてしまう。
毎日かかさず拭いてはいるが、野山を歩いた泥が落ちきるものでない。汚れた身体を見下ろし、菫は縮こまる。
しかし、もう遅いことに気付いた。我が身の下には、積まれた畳がある。その上にはすべすべとした手触りの敷物。
「まさかこれ、絹じゃあ」
「まさかって大袈裟だね」
血の気の引くのが、自分でも分かった。絹の敷物だけでも、東谷で何人分の身代を差し出せば弁償出来るだろうか。
虹色に光の撥ねる生地へ土汚れ。破れた小袖の端切れが、もつれてもいた。
「ごめんなさい! わたし、こんな上等な物を」
飛び退き、板間に額を擦り付ける。身体があちこち軋んだが、言ってはいられない。骨身を惜しまず、塵となるまで働いても足らぬのだ。
にも関わらず雲は笑った。ケタケタと、楽しそうに。
「あらあら、大事なとこが見えちまうよ」
両目を手で覆い、わざとらしく隙間から覗く。言われてみれば尻が寒く、胸元が心許ない。
菫は上体を起こし、小袖だったボロ布を掻き抱く。
「落ち着きなよ、取って食おうってんじゃない。狗狼が言わなかったかい? あんたがいいようにしてやろうってだけさ。気に入らなきゃ、また別のを用意してやるから。ものは試し、こいつを着てごらんよ」
寸前までのあくせくとした口調でなく、人の変わったような甘い声。ゆっくり優しく言いながら、雲は華やかな布の一枚を菫の肩へ掛けてくれた。
「あったかい」
「そうだよ。あんたは捨てられた。けど、ここで生まれ変われる。いや、死んじゃあいない。それくらいに、なにを望んでもいい場所ってことさ」
胸の奥で、一つ固いものの解けた思いがする。
雲の言う通り、菫は捨てられたのだ。理由は分からないが、なにかの願いと引き換えに、必要ないとされた。
ずっと今まで、ろくに他の土地も知らずに生きてきた東谷を追い出された。それなのに雲は、ここへ居ていいと言ってくれる。
「うっ――うわああ、うわああああん」
「そうか、泣きたいんだね。泣くがいいさ、気が済むまで。あんたの行く道が見つかるまで、ずっと居ていいんだから」
蹲る菫の背中を、雲はゆったりと撫で続けてくれた。
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