第5話:生け贄

 ふと、目覚めた。

 ひどく重いぼやけた意識に、いつ眠ったかなど考える力はなかった。それでもとても寒くて、いつもと同じにこもを巻きつけようとした。


っ!」


 腕に、腰に、脚に。堪えきれぬ激痛が走る。いや今まさに、杭でも刺されているようだ。

 身体が勝手に縮こまり、今度は背が引き攣れる。夢うつつの菫は、直ちに現実へと引き戻された。


「ううぅ……」


 痛みが遠退くまで、ひたすら耐えた。じっと動かず、歯を食いしばり、瞼をぎゅっと閉じて。

 しばらく。どれほどかまったく定かでないが、きっと四半刻に足らぬ程度。ようやく加減が見えてきた。

 止めた息を荒く吐き、薄く目を開ける。するとまた痛みが猛る。身体の芯から、百年もそこへあるような奥深い痛み。


「ここは――」


 視界は暗かった。しかしそれは、目の前に壁のあるせいだ。首を僅か捻り、横目に天の方向を見た。

 明るい。揺れの少ない灯りが、ふんだんに使われている。それに太い梁の天井。白く美しく塗られた漆喰壁が、高貴な建物と示していた。

 しかし妙だ。景色が長方形に区切られ、菫の居る場所だけが暗い。


 ――箱の中?

 菫がすっぽり収まるだけの、大きな木箱。なぜそんなところへ。この建物はどこか。どうして身体じゅうが痛いのか。

 そんな理由が分かるはずもない。


 と思ったのは、間違いだ。菫は知っている。ここは御覚山の中腹にある、山神の祠。

 そうと分かると、靄の向こうにあった記憶が大挙して押し寄せる。堰を切った途端、堤防も崩す勢いに流れる汚泥のごとく。


「わ、わた、わたしはっ」


 否定の声を上げたかった。もう村の者は、誰も居ないのに。

 夜。菫は住処すみかの小屋で眠っていた。そこに突然、大勢が押しかけてきた。扉の壊された大きな音で、目覚められたが。

 しかし目覚めぬほうが良かったのかもしれない。横になった菫を見下ろす目は怖ろしかった。誰かが言った「運べ」の声は、底知れず冷たかった。


 尋常ならぬ気配に、「嫌だ」と逃げようとした。しかし飛びかかられ、押さえつけられた。それは間違いなく、進ノ助に。

 手足を縛られ、丸太へ括られた。そうなる前に隙を探して暴れたが、尽く捕まってしまう。殴られ、蹴られ、投げ飛ばされ、小袖がぼろぼろになっても許してもらえない。


 山を登る一行は二、三十人も居た。およそ東谷の全員だ。

 どうしてこんなことを。問うてみると答えがあった。「お前が悪い」と、言ったのは纏め役。もはや驚く気力もなかったけれど。

 やがて丸太から降ろされ、この木箱へ放り込まれたに違いない。どうやらその前に、気を失ったようだが。


 以前。祠の掃除をしたとき、この箱を見た。入ってはいけないと言われた奥のほうへ色の朽ちた長持があった。

 御覚山を囲む四方の村人は、願いがあるとこれに供物を捧げる。願いの大きさによって、銅銭のことも蕪のこともある。

 だから誰ともなく、贄の箱と呼ばれるようになった。


 ――わたしが悪いって、なんのこと。

 菫の知る限り、東谷で人間が捧げられたことはない。しかし他の村では、稀にあると聞いた。祭神は狗神で、狼だから。肉が最上の捧げ物であろうと。

 なかったものを、なぜ急に。どうして菫でなければならないのか。歳の近い女とて、何人か居るというのに。


 ――あれ?

 答える者もない問いを、ずっと胸の内へ繰り返した。いつかそれにも疲れ、ゆっくりと大きく息を吸う。

 それで気付いた。おかしな事態に。

 山神の祠は、いつも無人のはずだ。世話は持ち回りで、宮司などがあるわけでない。参った者も、用が済めばすぐに立ち去る。


「なんで灯りが点いてるの」


 痛みという名の別の生き物のように、あちこち疼き続ける。生意気に、とくとくと脈を打って。

 だからと、ずっとこのままでは居られない。疑問は置くとしても、破れた小袖だけの姿では凍え死んでしまう。

 長持の縁へ手をかけ、震える指先に力を篭めた。自分の身体という幹を持ち上げようと、腕力だけで起き上がらせる。

 そこへ温もりがあるなら、当たらねばならない。


「ようやくお目覚めか」

「えっ」


 曲がりなりにも、菫は猟師だ。山の麓で育ち、人を含めた獣の気配に敏いはず。

 だのに気付けなかった。声を発した何者かが、ほんの二間先で床几に掛けていることを。


「ここはどこかと? お前たちが山神の祠と呼ぶところよ。入っておるのは、捧げ物の箱だ」


 黒の狩衣。紫の差袴さしこ。全面に染め抜かれているのは、祠の紋であろう。厳しい声だが、威圧する風でない。むしろ菫の置かれたさまを、教えてくれようとする。


「なんだ、声の出し方を忘れたか。この祠がみすぼらしいせいか。それとも我の姿が気に喰わんか? 望みがあるなら良いようにしてやろう。しかし唱えてくれねば、我にも分からん」


 この相手に、気に喰わぬところはなにもなかった。少なくとも、たった今は。それどころか、ほっと人心地の付く思いがする。


「あの。あなたのお名前は」

「ああ、そうか。我は狗狼くろう主上おかみからこの場を預かる者」


 床几から立った狗狼は、天井へ頭を擦りそうに背が高い。

 菫の安堵は、その頭を見たからだ。黒に近い灰色の毛に覆われた、鋭い牙を持つ獣の形。


「見ての通り、狼の化身。狗神だ」


 ――狼はわたしの友だち。

 嬉しかった。狗狼の額に、純白の白い模様のあることが。胸に温かな想いが積もる。そのせいか、菫は意識を遠くした。

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