第4話:冬の訪れ

 ◇ ◇ ◇


 尾根と尾根が互いを嫌うように分かれた平地へ村はある。だから俗に、東谷ひがしたにと呼ばれた。

 中でも高い位置に菫の住む小屋はあり、さらに高いところへ小さな畑を拵えていた。菫は鎌を提げ、今年最後の収穫にかかる。


 山を下りた翌朝、狩りに訪れた一行は東谷を去った。当然に、椿彦も。南の町近くに大納言の別邸があると村の纏め役は言う。

 それから三日が経っても、ふと気付けば思い浮かべていた。あの涼やかで凛々しい、物憂げな男のことを。


「自分が何者か、か」


 下る道々で、椿彦はそんなことを言った。目に見える距離さえ一人で歩めない自身に対し、菫はすごいとも。


 ――わたしなんて、この山しか知らないのに。

 不満には思わない。母が居て、仲間が居て、友も獲物も居る。布や薬は行商がやって来るし、都へ出る者に頼むことも出来た。

 菫に必要な物は、何もかもここにある。


「自分が自分である理由? 偉い人は難しいことを考えるのね」


 物の怪などと言った自分より、突拍子もない。

 たとえば菫はこの村で両親から産まれ、名付けられて育ったのだ。村の者が皆、その名で呼んでくれる。沢の淀みで、己の顔を覗くことも出来る。


 何より自分が、菫という人間なのを忘れるはずがない。仮に誰かが違うと言っても、それは言い張っているだけだ。

 実のない中傷など、放っておけばいい。その誰かに、事実を変えることは不可能なのだから。


「都にはそんな、わけの分からない人が居るのかな。かわいそうな椿彦」


 無理筋ではあっても、相手をするのも疲れそうだ。公家の仕事となれば、取っ組み合いで解決するわけにいかぬだろう。

 ――もし村の誰かが、そんなことを言い始めたら。わたしはどうするんだろ。


 想像して、胃が重くなった。他の面々が笑い飛ばしてくれても、その者の口を塞ぐことは出来ない。

 ならば顔を合わさぬよう、家から出るのも億劫になりそうだ。そんな生活は嫌だと、かぶりを振る。


「我慢するより、いっそ山の上に移るほうが楽ね」


 尾根の底から、山頂を見上げた。空が全体的に低く、あちこち暗くなり始めている。

 冬がやって来たのだ。


「おい菫、なにを呆けてんだ」

「えっ、あっ。なに?」


 不意に声がかかって驚いた。見れば沢の縁から登る小道に、進ノ助の顔がある。言い分に合わせ腕組みをし、呆れたという風に。


「呆けてない。大根を抜いてるの」

「嘘を吐くなよ、しばらく動かなかったじゃないか。なんだか知らんけど、ぶつぶつ独りごとも言ってよ」


 いつからだか、見ていたらしい。それを聞いて、菫の背に寒気が走る。


 ――ちょっと待って。独りごとって、わたしなにを言った?

 椿彦の名など出さなかったか。思い出そうとしても、心に思っただけか声にしたか分からない。


「ずっと覗いてたの? いやらしい」

「い、いやらしいってなんだよ。畑に居るってふきさんに聞いて来ただけじゃねえか」


 普段、畑の世話をしているのは蕗だ。菫の母で、父を亡くしてから少しやつれた。

 目の前に住む進ノ助がちょっと覗くと、やれ茶を飲んでいけ、やれ汁を啜れと小屋に入れたがる。


「もう残り少ないから、母さんまで来なくていいの」

「少なくっても、手が止まってりゃ終わんねえけどな」

「わざわざそんなこと言いに来たの? やっぱり都の人とは大違いね」


 お互いがいつまで寝小便をしていたか、そんなことも記憶にあった。進ノ助はそのころと変わらぬ調子で、今もからかおうとする。


 三、四年前までは、菫もいちいち憤っていた。大人たちが「仲良しだな」と言うのにさえ「そんなことない」と食ってかかった。

 最近はたしかに、よく付き合ってやれたなと思う。


「ちょっと話しただけで、都にかぶれてんじゃねえよ。毎年のことだろ」


 言う通り、都から公家が来るのは決まったことだ。優雅な鷹狩りと違い、自分らの足を使う鍛錬として。年々、その目的も薄れているように思うが。

 去年の内大臣など連れだけを山に入らせて、自身は纏め役と酒を飲んでいた。


「――あの公達きんだちと、なにを話したんだ?」

「きんだちって、なに?」


 ひと言を発するたび、何歩かずつ近付いてくる。拳の分も変わらぬ背丈を、精一杯に仰け反らせて。


「そんなのも知らねえのか。公家の息子のことだよ」

「あんた。なんでそんなに、わたしを馬鹿にしたいの」

「馬鹿になんかしてない。実際、知らないんだろ?」


 とうとう二歩先へ突っ立った。一端の理屈のように言う頬へ、「どうだ参ったか」と書いてある。進ノ助を特段に好きでも嫌いでもないが、最近ますます鬱陶しい。

 やりたいようにさせて、さっさと会話を終わらせるが吉。割り切るには、疲れた息を吐き出す必要があった。


「都までよく見えるって話したくらい。獲物は見つからなかったしね」

「なんだ。あの若いの、本当に景色を見に行ったのか」

「若いのって、椿彦のほうが歳上でしょ」

「椿彦? あの公達のことか」


 しまった、と悔やんだが遅い。秘密にしろとも言われていないが、よりにもよって進ノ助に漏らしてしまうとは。

 また面倒臭い、からかい文句を言われると身構えたが、違った。


「俺も名前を聞いたけど、名乗らないって言ったぞ。好きに呼べってな。だから俺は、若さまって」

「狩りの間だけの名前を付けろって言われたの。それだけよ」

「菫がか。若さんのほうから言ったんだな、間違いないな?」


 どうしたと言うのか、進ノ助は何度も念を押す。しつこくされても、嘘は言っていない。菫も間違いないと繰り返すしか、言葉がなかった。


「まあ、それはいいや」

「いいなら何度も聞かないでよ。そもそも、なんの用?」


 痛くもない腹を探られて苛立ったせいか。菫は思わず、語気を強めてしまった。はっと口を押さえたが、もう進ノ助は憮然と表情を変えている。


「なんだよ。用がなきゃ、来ちゃいけねえのか」

「そんなこと、ないけど」

「あの日はまだ明るいのに、狼が何回も遠吠えしてたから。俺は心配して――」


 拗ねた視線は菫から外れ、埋まったままの大根に向いている。小さな子がだだを捏ねるように、もごもごと聞き取りにくい。


「心配って言ったの? あんたが? わたしを?」

「ばっ、馬鹿言うな! 俺が菫なんか心配するもんか! お、親父おやじだよ。親父が心配してたんだ!」


 さっと踵を返し、進ノ助は駆け去った。止めようと手を伸ばしかけたものの、まるで間に合わない。

 ――仕方ない。またなにか、汁でも持ってってやろ。


 彼の父親とは東谷の纏め役で、菫の父と仲が良かった。菫のことも、よく気にかけてくれる。冗談めかして「うちの嫁になっちゃどうだ」と言うのだけは困るけれど。


「おじさん、忙しくしてたけど。手が空いたのかな」


 纏め役は公家の一行を迎える準備と、去った後始末に大わらわだった。それが息子を様子見に来させるほどは、猶予が出来たのかもしれない。


「あとで顔を見せに行こうかな」


 進ノ助を見送った格好のまま、呟く。と、その視界に白い物が舞い始める。


「すぐに積もりそうね」


 最初は見間違いと思うほど薄っすらとしていたのが、積もる音も聞こえそうな大粒へと変わる。


 ――椿彦のところも降ってるのかな。凍えてなかったらいいな。

 とは間違いなく声に出さず、胸に秘めた。

 しかし淡い想いなど意に介さず、雪は降り積もる。一切の手加減なく、御覚山と東谷は真白に覆われていった。

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