第3話:怖れる気持ち
「頼んだ通り。いやこれは、それ以上だ」
尾根伝いに登ること四半刻。目指した岩場に二人は立った。
突き出た岩は、十人ほども乗れそうに大きい。連れの男どもは遠慮をしてか、付け根に留まる。椿彦はそれを尻目に、宙空へ伸びる先端へ、怖れた様子もなく進んだ。
「良かった。
「本当によく見える。菫も来てごらん、素晴らしい景色じゃないか」
――知ってる。わたしが連れてきたんだもの。
いま椿彦との三間の距離を、歩んだことがないと思うのか。街や都に住む女なら、それで当たり前だろうけれど。
しかしせっかく声に出してくれたのだ、断るのも申しわけない。などと、菫は自身に言いわけを拵える。その間も椿彦は、肩越しに顧みて右腕を出し続けた。
「都が見える」
手を引かれ、隣へ並ぶ。椿彦の手は、そっと菫の肩に添えられた。「落ちたら危ない」と囁かれては、もちろんと頷くしかない。
なにか言うべきと言葉を探す。が、やはり目新しい何物も見つけられず、椿彦の住む街のことを口にしてしまう。
それこそ彼には「知っている」と思われよう。楽しますことまで案内の役目でないが、世間話にもつまらない。進ノ助に言われたのも仕方がないと、菫は小さく息を吐いた。
「そうだ。これほど高く登っても、その程度しか見通せない。都の先にも、まだまだ土地は続くのに」
「それが?」
「いや、見たかったのだ。私の住む土地がどんな位置にあるのか。安穏と暮らす場所が、世に言うほど泰平なのかをね」
今居る
その向こうへまた山が連なるけれど、見上げるものはない。五つか六つも越えると、平らな土地が開ける。
空気が白んで青やら緑やら分からぬようになった辺りが、ようやく
「
「はっはっ、菫は鋭いな。しかしそんな話はないよ、今のところはね。私が勝手に案じているだけさ」
鋭いつもりはなかった。地勢を知っておきたいとは、猟師に当然の感覚だから。
狩りはやみくもに獲物を探し、出会い頭に矢を放つものでない。獣道に巣穴はもちろん、起伏と木石の配置を知り、狙う獲物を追い詰めるものだ。
これが人の住む場所を対象にするなら、それはもう戦だろうと。菫には自明だった。
「西へずっと行くと、海がある。知っているかい?」
「見たことはないけど、とても広いと聞いたわ。水が塩からいんでしょう?」
尾根に遮られる方向を、椿彦は指した。菫の返答に、また僅か「フッ」と笑声を溢す。
「そうだよ。帆を付けた船を浮かべても、なかなか対岸へ辿り着けない。何日も何日も進んで、やっと陸地がある。そこは飛鳥と違う、別の人々の住む土地だ」
「別のって、まさか物の怪?」
見たこともない海を越えた先。山を挟んで反対の村へも行ったことのない菫に、想像がつくはずもなかった。
途方もない言い方をされたので、あえて突拍子のないことを答えた。しかし椿彦は柔らかく微笑み、否定に首を振る。
「それは私も見てみたい。だが残念ながら違う。飛鳥を治めるのとは別の
「へえ、帝は天下にお一人と聞いたけど。それで戦になりそうって?」
感心してみせたものの、菫には帝も縁遠かった。
まだしも巨大な塩の水たまりなら、どんな物か見てみたいと思う。しかし豪華な建物から出てくることもない人物など、どう興味を持てば良いか分からない。
「絶対にないとは言えないが、それも違う。私が懸念するのは、鉄砲だ」
「鉄砲なら、うちにもあるけど。あんなの役に立つの?」
たまに都へ出かけていた父が、どんな伝手でか買って戻った。
弓と同じくらいの長さだが、桁違いに重い。一発外せば、次を撃つのにひどく時間がかかる。そのうえ届く距離は、弓の半分以下だ。
凄まじい威力と引き換えにも狩りには使えぬと、すぐに納屋へ押し込まれた。
「立たんな。だがなんの鍛錬もない子どもでも、大人と同じ威力で用いられる。それがいつか、大きな力になりはしないかと思う」
言いながら、椿彦は遠くをじっと眺め続ける。見える物すべてを目に焼き付け、欠片も残さず持ち帰ろうとするように。
どれほどか底も知れないが、とにかく真剣なのが痛いほど伝わる。公家が偉いと知っていても、なぜ偉いのか知らぬ菫に、気の毒と感じさすほど。
「難しいことは分からないけど。いつか、なにかなんて言い出したら、なんでもだよ。火事は怖いけど、煙もないのに慌てたって仕方ないからね」
慰めにならずとも、気休めくらい言ってやりたいと思った。馬鹿な田舎娘が馬鹿なことを言うと、笑えればそれでいい。
その甲斐あったのか、椿彦は厳しく睨む眼をまばたかせた。
「なるほど、それはそうだ。起きてもいない火事に備えるのでなく、煙の立ちそうな場所を見ろと言うのだな」
「そんなことは言ってないけど」
謙遜でなく、事実として言っていない。けれども椿彦は「菫に聞いて良かった」と無邪気に笑う。
――なら、いいか。
諦めると、菫も笑うしかなくなった。
「椿彦さま、椿彦さま」
「なにか」
ひとしきり笑ったところで、連れの男どもが呼んだ。潜められた声で、椿彦も同様に返す。
「どうも危のうございます。戻る道に狼の居るよし」
「ふむ、じきに戻らねばならぬだろう。それまでに逃げてくれそうか?」
「いえ。それどころかこちらに気付き、警戒しておるようです。ややもすれば、襲い掛かってくるかと」
景色を見たいと言った椿彦の組だけが、他の組と離れている。それで人の気配を避けた狼と、行き先がぶつかったのかもしれない。
――かわいそうに。
狼たちの気苦労を思い遣る菫の目の前で、連れの男どもは弓の張り具合をたしかめた。
「背に腹は替えられませぬ。狼を退治て参ります」
「ならん。菫の言いつけを忘れたか」
言い終えるのを待たず行動に移ろうとした男どもを、椿彦は厳しい声で止めた。
「しかし。陽が落ちれば、凍えてしまいます。狼の都合に合わせるわけには」
「それでも駄目だ。なにか方法を考えよう、たとえば火で
「寄せ付けぬならそれで良いでしょうが、追い払うとなると――」
律儀に約束を守ろうとする椿彦がありがたかった。だが火に関しては、男どもの言い分が正しい。悪くすれば余計に怒らせて、すぐさま襲われることにもなるだろう。
しかし菫には、いかにするかの心当たりがある。
「大丈夫。わたしに任せて」
「どうするのだ、女ひとりに危ういことをさせられんぞ」
「危なくないけど、そう言うなら一緒に来て」
遠吠岩を後に、獣道を下る。すると幾ばくも進まぬうち、唸り声が響き始めた。聞き違えようもなく、低く果てもなく続く狼の声。五、六頭の群れのようだ。
「どうするのだ」
椿彦が同じ問いを繰り返した。説明するより、見せたほうが早い。「こうするの」とだけ言い、菫は大きく口を開ける。
「アオォォォォ――」
高く、高く。女の喉ならではの、高い叫びを天に向ける。我ながら、本物と聞き分けも難しい。狼と話したくて、必死に練習をしたのだ。
息の続く限り、長く吠えた。終いには苦しくて、一瞬のめまいがした。
「そんな鳴き真似で、狼が逃げてくれるものか」
「そのようなこと、結果も見ずに言うものでない」
疑いの声も、椿彦は黙らせる。誰であれ、信じてもらえるのは心地のいいものだ。
それに結果は、すぐにも出るはず。と思う間に、返事があった。
「アオオォォォ!」
これは本物。すぐそこの群れでなく、違うどこかに居る狼が吠えた。すると唸り声がぴたりとやみ、茂みを揺する音が僅か鳴る。
しばらく、誰も音を立てなかった。どうなったか予想はしても、信じ難いのだろう。だがおもむろに、男どもは動き始める。狼の潜んだ辺りを厳重に見回り、やがて驚きの声を上げた。
「狼どもが去ってございます!」
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