痛み

camel

痛み

 電車が止まった。信号機を待っているらしい。

 昼の電車はちょうどよく空いていて、ぽつりぽつりと間隔を開けて乗客は座っている。射し込む日差しは暖かく、足元の暖房も効いている。眠気を誘う電車の中で、あ車窓に切り取られた風景を焼き付ける。

 この電車に乗っていると、いつも元に戻れない予感がする。

 目的地は国立の大きな病院だ。



 私の腫瘍は悪性のものだ。

 いまいち聞き覚えのない臓器を蝕んでいる。鎮痛剤によって、遮断された痛みは一時的な気休めであり、日々確実に健康な身体から遠ざかっている。落ちていく食欲と、軽くなっていく私。どうしたらいいかと言われても、私にはどうにもできない。励まされても、私は一日一日死に向かっている。こんなにも終わりへの実感が湧いてくるものなのかと、不思議でもある。


 すり寄ってくるのは、天使か、悪魔か、死神か。

 鎌を持った美しい白い羽の誰かを想像する。そいつは美しい顔で、私の側をついて回っている。それこそ、隣の空いた席に腰を下ろしているような気がする。


「誰かいるなら、教えほしいね」

 ファンタジックな妄想は口からこぼれ出ていた。

「いるよ」

 すると、向かいの少年が応えた。

「え、見えるの?」

「はっきり見えてるけど」

 松葉杖を抱え直し、少年が私の背後を指差す。

「お姉さんの後ろの窓に映ってるじゃん」

「やっぱりか。ありがとう」

「どういたしまし……」

 少年は急に膝を押さえている。

 彼の足の痛みはいかほどだろう。骨折だろうか、骨を蝕む病気だろうか。考え出すと、何故だか自分の足もじわりと痛んだ。鈍い痛みだ。私が自分の足を見ていると、今度は空いていたはずの右隣から声がした。

 「それでは、私はお嬢さんの痛みをもらいましょうか」

 老紳士が笑っている。

 こんな人、さっきまでいたっけ。首を傾げていると、紳士は次の駅で降りていってしまった。



 最終駅でゆっくり立ち上がると想像の痛みは消えていた。足を引きずらずにすむと安堵し、私は病院行きのバスを待った。

 吹き抜ける風とともに、先の少年が脇を駆け抜けていく。痛みが引いたのだろう。しかし、痛み止めが効くには早すぎる。身体が小さく、若いから。いや、まさか。

「もしかして、私の痛みも?」

 紳士の言葉を思い出し、腹から少し上の辺りに触れる。中を刺して、ぐりぐりと押し広げるみたいな痛みの感覚が消えている。そろそろ鎮痛剤の効果も薄れてくるはずなのに、車中でずっと立っていられたことにも驚いた。

 バスを降り、受付を済ませ、待合室のソファに腰を下ろした。液晶画面に出る自分の整理番号を待つのも苦ではない。


「あら、嬉しそうね」

 隣に座った婦人が話しかけてきた。

「痛みがなくなったんです」

「私もないのよ。ところで、あなたの後ろに……」



――橋本様、橋本ナナ様はいらっしゃいますか?

 婦人の言葉を遮るように、液晶画面の整理番号が自分の番号に切り替わり、看護師に名前を呼ばれた。反射的に立ち上がり、診察室へと足を運んだ。


 私の後ろに何かいる。

 皆が口を揃えるのだから、誰かいるのだろう。

 疑問はあっても、6番の診察室の扉を開けた。主治医はこちらを見ずに挨拶し、早々に検査結果の説明を始めた。

 痛みのなくなった話をするタイミングを図りながら、私も機械的に首を縦に振る。なるほど。

そうですね。

はい。

わかりませんとは言いにくい雰囲気に今日も飲まれていくのだった。

 



***

 その翌週、私の病室にあのときの紳士が訪れた。

「お嬢さん、お迎えにあがりました」

「あなたが天使?」

「もうお分りでしょうに」

「夢くらい見させてほしいなあ」

「嘘はつけないのです」

 あのときと同じように穏やかな笑みで、紳士は私の手を取った。立ち上がる身体が妙に軽い。あの日から、鎮痛剤はいらなくなった。


「動きやすいでしょう。でも、痛みだけを取るのは難しくてね」

 断りを入れているが、悪いという気持ちは伝わってこない。

「痛みは生に紐づいたものだと」

 紳士は肯定も否定もしない。


 病室を出ると、私の後ろを『視た』少年が立っていた。

 元気になった彼も入院していたらしい。心配そうに私を視ている。

「あの子はまだ連れていかないであげてよ」

「では、彼に痛みを返しますか?」

「意外と意地悪だね」


 仕方なく私が頷くと、少年は呻き声を上げてうずくまった。

 少年を探していたらしい看護師が駆けてくる。

「さあ、行きましょう」

 少年の隣りを通り過ぎると、心がちくりと痛んだ。

 どうやら、この痛みは無くならないらしい。

(了)

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