みずのひと

教室

「昨日は何をしていたの?」

 先輩はぼくにそう声をかけてきた。行儀の悪いことに、先輩は五かける八の四十台並ぶ机のうちの一つに腰掛けている。どうせなら椅子に座ればいいのに、と思うぼくだったが、しかし先輩は背が高いので、ちゃちい木製の椅子なんかでは据わりが悪いのかもしれない。

 さて、質問に戻ろう。昨日、昨日か。昨日は日曜日だった。休日イコール土日祝という、極めて平均的な公立の学校に通い、なおかつ帰宅部であるぼくは、当然昨日の日曜日は暇をしていた。こう言うと友達のいないやつみたいだが、昨日はたまたま誰とも遊ぶ約束がなかっただけだ。そうであると信じたい。

「昨日は、ずっとSNSを見てました」

「ずっと?」

「ずっと」

 これはほとんど誇張がない。トイレや風呂に入る時以外は大体見ていた。

「『炎上』ってあるじゃないですか」

「ああ。あれ、たまにリアルのニュースでも話題になってたりするよね」

 『リアルのニュース』という、耳慣れない言葉が先輩の口から発せられた。リアルではない、バーチャルのニュースが見られるようになった時代だからこそ生まれた言葉だろう。リアル書店、とかと同じジャンルだ。以前、先輩が自ら、『自分は電子書籍否定派だ』と言っていたし、もしかしたら先輩はインターネットに身を浸すのは憚られるタイプの人間なのかもしれない。

「昨日は、炎上してるアカウントをひたすら漁ってました」

「ふぅん。戸塚くんは性格が悪いの?」

 ものすごい直球だ。しかもそれを、本人の目の前で聞いてくるとは。先輩はちょっと変わっているのだ。悪い言い方をするなら、空気が読めないということになるのだが。先輩がまとう、神秘的な雰囲気もまた、近寄り難さを助長している。腰まで伸びた黒髪とか、作り物のように白い肌とか、誂えたように似合う泣き黒子とか、そういう外見的なものに付随しているのもそうだが、この全てを見透かしたような微笑みこそ、彼女の本質を決定している根本であるように思える。

「いや、そういうわけじゃなくて……どっちかといえば、なんていうんだろうな……そう、性格を悪くしにいったんです。たまにありません? 汚いものを見ていたくなる時、というか」

「ああ……そこに虫がうじゃうじゃいるのはわかりきってるのに、つい石をひっくり返しちゃう、みたいな話?」

「まあ、そんな感じです」

「露悪的なことをしたくなっちゃう年頃なのかな? 戸塚くんは」

 そう言われると、なんだか若気の至りを指摘されているようできまり悪いが、しかし先輩とぼくは一歳しか歳が変わらない。そんな人に「年頃」なんて言われても、いまいち説得力に欠ける。

「しかし、インターネットではあっちこっちで事件が起きてるよね。今言った、炎上とかもそうだしさ。今日、現実の世界で起きてる事件と、どっちが多いんだろうね」

「それは……」

 どうだろう。ぼくは考えあぐねてしまう。

 この混とんとした世の中で、毎分毎秒毎時間、どこかで事件が起きていることは確かだ。ニュースになっているだけでも相当な数があるのに、表に出ていないものを合わせたら一体どれほどの数になるのか、見当もつかない。だが、インターネット上での諍いの数を数えることなんて、それこそ不可能だ。

「SNSは大抵の場合匿名で利用されるだろう? そのせいで、人間の攻撃性がより発露しやすくなっているのだと言う人もいるけれど……私は、そうじゃないと思うんだよね。

「例えば、お酒に酔うと急に攻撃的になる人がいるだろう? あるいは、好きな人ができてから、性格がおかしくなってしまったり──。

 つまり、そういったものはすべて、ただのきっかけに過ぎない、ってことなんだよ。元々その人はそういう人で──人をいわれなく中傷するような人で、それが何かのきっかけで表に出てきてしまったというだけ。

 知らないかな? とても真面目で勤勉な男がいたんだけど、そいつは酒を飲むと途端に手がつけられないほどの攻撃性を帯びる。周りのものはそいつが霊に取り憑かれているんだと騒ぐんだけど、実はその男は元々そういう性格で、それが酒のせいで表に出てきてただけだった、っていう昔話」

「……知らないです」

「そう? まあ、戸塚くんが知ってようが知らまいが、そんなことはどうでもいいんだ」

 どうでもいいのか。なら聞かないでほしい。

「要するに私は、こういうことが言いたいんだよ、戸塚くん。昨日まで自分に親切にしてくれていた隣人が、ある日突然豹変するかもしれない。世界中から嫌悪されるような大悪人が、実は弱者を大勢救っているかもしれない。いつだって善悪は表裏一体だ、いや、もっといえば、そんなものはただの主観でしかない。存在しないんだよ、本来は」

 開け放たれていた教室の窓から、夕方の風が吹き込んできて、ぼくたち二人以外は誰もいないこの空間を通り抜ける。先輩の長い髪が風に掬われて、ふわりと舞った。

「正義と悪に違いなどない。

 人間とそうでないものに違いなどない。

 あなたと私に違いなどない。

 『違い』なんて、主観でしかないんだよ」

 先輩はいつもそうだ。なんとなくわかったような気になるような、けれど全く意味のないような、かと言ってばっさりと斬り捨ててしまうのも憚られるような、そんなことを言って周囲を煙に巻く。第一、今はそんな話をしてはいなかったはずだ。……あれ、ぼくは最初、一体なんの話をしていたのだっけ。

「こんな難しい話はやめにしてさ」

 先輩は腰掛けていた机からぽん、と飛び降り、しなびた学生鞄の中から財布を取り出す。白一色の長財布だった。汚れやすそうだな、と思ったが、しかし同時に、その実用性や生活感のなさが、先輩らしいな、とも思った。

「飲み物でも買いに行こうよ。さっき、家から持ってきたお茶を切らしちゃったんだ」

 確かに、話が一つ飛ぶだけですぐに忘れてしまうような、言ってしまえばどうでもいい話題より、目先の飲料の確保のほうが大事だな。「ここの自販機のお茶、駅前のよりも高いんですよ」言うと、先輩は困ったように眉を八の字にして笑った。

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