第64話 届いた手

 もうどれだけこうしていたのだろう。


 ぐるぐると墨のめぐる世界で自分は考える。


 自分が誰だったのか、何だったのか。


 馬鹿なことをした気がする。


 許されないことをした気がする。


 誰かに手を引いてもらっていた気がする。


 誰かの背中を見ていた気がする。


 でも、何もわからない。


 繋いでいた手ももう自分にはなくて、開いている気がする目も本当はもうどこにもない。


 揺れる。巡る。一部になる。


 暖かい場所へ、優しい場所へ、溶けて、溶けて、溶けて――




 ――えまきや




 消えかけた意識が少し浮き上がる。

 呼ばれた。

 でも誰に?



 ――えまきや


 ――えまきや こっちだ!



 繰り返し、呼ばれている。


 瞼を開く。


 ……目がある?



 ――こっちだ! 戻ってこい!



 戻る……?


 顔を動かす。


 遥か下のほうに光が見える気がする。




 ――絵巻屋 おい!


 ――お前のカタチはこっちだ!




 光をぼんやりと見下ろす。


 でも、気のせいかもしれない。


 だって、あれはなんだか怖い。


 自分が手を触れてはいけないもののような気がする。


 自分なんかが手を伸ばしてはいけないような――



「――なぁにやってんだい馬鹿弟子!」



 急に耳元で叫ばれ、びくっと体を跳ねさせる。


 でも姿は見えない。


 混乱したまま、自分を見る。


 手足がある。体がある。


 そうだ。自分はこの声を知っている。


 彼女は自分の師匠で、自分は――



「まったく、最後の最後まで情けないやつだ――ねえ!!」



 ガンッと、誰かに思いっきり背中を蹴り飛ばされる。


 体がぐんっと加速して、足元の光に近付いていく。


 光へ。


 誰かが自分を呼んでいる場所へ。


 慌てて振り返ると、見覚えのある豪快な女性が遠くで笑っているのが見えた。


「し、ししょ……!?」


「ほらっ! ちゃんと手を伸ばすんだよこの馬鹿!」


 腕を振り回して女性は叫ぶ。


 自分の体は加速して、彼女の姿はあっというまに小さくなって見えなくなってしまう。


 だけど、不思議と悲しくはなかった。


 言葉を交わすことなく消えた彼女が、最後に想いを叩きつけてくれたと分かったから。


 泣きそうにぐしゃっと顔を歪め、だけどそれを腕でぬぐって光に向き直る。


 暖かい光。


 懐かしい光。


 その隙間から、小さな手が必死に伸ばされている。


 やっぱり、少し怖かった。


 救われるのが、許されるのが怖かった。


 でも――




 ――絵巻屋!


 ――私はお前を


 ――置いていかない!!




 ああ。


 これじゃあまるで、いつかしたやり取りの逆じゃないか。


 彼女の手首には、あの日もらった黒の組みひもが巻かれている。


 それだけで胸の中に、熱が急に戻ってくる。


 なけなしの勇気を出して、勢いよく手を伸ばす。


 彼女の小さな手をぎゅっと握る。


 彼女はそんな私の手を強く握り返す。そして、そのままぐいっと私の体を引きずり下ろした。





 ――瞼の向こうを照らす光に、私はゆっくりと目を開ける。


 木々のざわめき、草のにおい。


 ここは――山?


 だんだん目が光に慣れてくる。


 目の前に人影があって、自分は彼女が持つ筆に手を重ねているのだと知る。


 彼女の手首にあるのは、あの黒の組みひも。


 だけど、なんだか記憶と少し違う。


 組みひもを巻いた彼女の手が、あの時より大きくなっているような……?


「絵巻屋……」


 顔を上げる。


 驚いた顔の少女と目が合う。


 赤い目に、白い髪。


 前髪にはいつか結ってあげた花の髪飾り。


 でも、その顔つきも、体も、どう見ても十三、四歳ぐらいに見えた。


「アナタ……」


 記憶よりずっと背が伸びて成長した少女に、私はおそるおそる問いかける。


「写見、ですか……?」


 その問いに少女は答えなかった。


 代わりに彼女は顔を歪め、勢いよく私に抱き着いてきた。


 ぎゅうぎゅうと痛いほど抱きしめられ、服の肩口が涙に濡れていく。


 何が起きたのかわからず、私はろくに動けずにいたが、ふと足元を見て目を見開いた。


 足元に広げられた絵巻。


 そこに、墨で書かれた人物。


 見間違えようもない『自分』の姿。


「まさか」


 呆然としたまま、しゃくりあげ続ける彼女に目を向ける。


「私を、『描いた』んですか」


 答えは、腕でさらに強く抱きしめられたことだった。


 写見の体は震えている。


 記憶よりずっと成長した、それでも小柄な少女の体が。


 その意味を理解して、私も目の前がぼやける。


「アナタ、一体何年描き続けたんですか……」


 涙をこらえて尋ねる。


 写見は何度もしゃくりあげながらやっとのことで答えた。


「お前を、ぎゅっとするにはっ、背丈が足りなかったっ」


 首に回された腕が、強く強く私を抱きしめる。


「やっと、ぎゅってできるっ……」


 写見はぼろぼろと泣き続ける。


 私は少しだけ迷い――彼女の体をそっと抱きしめ返した。


「うわあああん! この馬鹿ァ!!!」


 突然何かが飛んできた衝撃に倒れそうになって、だけど写見が怪我をしないように辛うじて踏ん張る。


 そちらに目を向けると、ぶつかってきた男は、面に描かれた顔からぼろぼろと涙をこぼしながら私に抱き着いていた。


「化身……?」


「そうだよォ! 馬鹿ァァ!!」


 そこまで言うと、化身は派手に声を上げて泣き始めた。


 周囲の草花が揺れるぐらい、大きく、大きく。


 その勢いがなんだかおかしくなって、私は小さく笑ってしまっていた。


「アナタの方がぐちゃぐちゃに泣いてどうするんですか」


「ウ、ウルセェやい!」


 目を吊り上げて化身は私から離れていく。


 そして、ふっと優しい顔になって私に言った。


「おかえり、


 驚きで目をしばたかせる。


 初めて彼に名前を呼ばれた。


 馴れ馴れしいようでいて、それ以上こちらに近付いてこようとしなかった彼に。


 まだ呆然としている私に化身は告げる。


「オマエが思うよりオマエのことを想ってる奴はいたってことサ」


 私を抱きしめたまま、こくこくと写見はうなずく。


 抱きしめ返しながら、私は軽く目を閉じる。


 温かい。生きている。


 ここに。異界に。私たちは生きている。


 小さく、口が動いた。


「これが奇跡、ってやつですか」


「……奇跡なんかじゃない」


 ようやく私から離れていった彼女は、何故か不機嫌そうに唇を尖らせていた。


「私が選んで、私が掴んだ」


 手をぱたぱたとさせて憤慨しているようだ。


 自分の努力をないがしろにされたようで怒ってしまったのだろうか。


「頑張ったます。褒めろます」


 ふんすと鼻を鳴らしながら写見は胸を張る。


 私は素直にそれに謝罪しようとし――視界に入った人影に目を疑った。


「……は?」


 私の視線の先には、絵巻でぐるぐる巻きにされて縛られている物事主の姿があった。


 ご丁寧にも口には紙が貼られていて、喋れないようになっているようだ。


 私は震える手で彼を指さしながら、こわごわと写見に尋ねる。


「写見、……あれは?」


「しばいた」


 写見は即答する。


「いらないことをギャーギャーうるさいからしばいた」


 物事主は「もごー!」と暴れまわり、なんとか口の拘束から逃れたようだった。


「きっ、聞いてくれよ先代! 今代ったらひどいんだよ!?」


「うるさいぞ」


「ギャインッ!」


 写見が筆を振り上げると、どこからともなく現れた小さな雷が物事主の体を打つ。


「今は私も対等だ。神様だ」


 その言葉に私はぽかんと口を開ける。


「ぐうう、こんなになるなら神通力なんて与えるんじゃなかったよぉ……」


 メソメソ泣き出した物事主に、写見はぱたぱた筆を振る。


「うるさい。そんなとこで転がってるなら道行のこと呼んでこい。アイツが一番コイツを待ってた」


「はぁ!? なんで僕が!」


「あとでおだんご作ってやるから」


 物事主は派手に顔をしかめると、うぐぐぐぐと唸ってからがっくり肩を落とした。


「ホントさぁ……異界の神を顎で使うなんて前代未聞だよ……」


「さっさと行け」


「いったぁ!!」


 ピシャン! と音がして、再び物事主の体に雷が落ちる。


 とぼとぼと去っていく彼の背中を呆然と見送り、私は彼に向けていた指を写見に向けた。


「神様……?」


「そうます」


「アナタ、絵巻屋になったんじゃ……」


「そうます」


 写見は首を縦に振る。


 そして、立ち上がって大きく胸を張った。


「私は神様ます。この異界の全部を描く――『絵巻屋』という神様ますっ」


 その勢いに呆気に取られて、私はぽかんと口を開ける。


 神様?


 『絵巻屋』という神様?


 まさかそんなことが?


「何かおかしいますか? 私に神様の素質があるのは知っていたはずます」


「いや、それはそうですが……! でも、『絵巻屋』への信仰は……!?」


 そうだ。信仰がないと神様にはなれないはずだ。


 彼女が集めていた信仰は『見る』ことだけだったはず。


 まだ『絵巻屋』になったばかりの彼女に信仰なんて――


「お前が集めてたます」


 きょとんと間抜けな顔で私は写見を見上げる。


「信仰とは愛されること、求められること、敬われること」


 写見は大きく腕を広げる。


 まるで私の全部を受け止めるように。


「お前はちゃんと異界を愛してたます。みんなにもそれは伝わってたます」


 師匠に何度も言い含められてきたことが、写見にもらっていた言葉が、急に現実のものになって目の前に出される。


 私は、異界を愛していた。


 きっと愛されないと思っていた、愛する権利もないと思っていたこの異界を。


 それが『絵巻屋』という存在への信仰となり、今の彼女を形作った。


 すぐには信じられないという思いで写見をぽかんと見ていると、ふわっと化身が目の前に飛んできた。


「お前のしてきたことダ。成し遂げてきたことだヨ、絵巻屋」


 静かに優しく肯定される。


 驚きがだんだん収まり、実感が浸みこんでいく。


 自分の手を見る。


 幾度となく筆を握って、モノたちのために絵を描いてきた手を。


 ……そうか。


 私は、異界を愛していたのか。


 化身はそんな私に近付いてくると、べしんと袖で頭を叩いてきた。


「ほら、褒めてやりなヨ。全部お前のためにやり遂げたことダゾ?」


 写見は私の前に仁王立ちになって、じーっと私を待っていた。


 その頑固な様子が、成長しても変わらずに見えて、私は穏やかに笑って彼女に言った。


「ありがとうございます。写見」


 しかし、写見はむむむっとさらに唇を尖らせた。


「違うます。私は褒めろと言ったますっ」


 きょとんと目を丸くする。


 写見はにやりと笑った。


「ご褒美を要求するます」


「ご褒美?」


「そうますっ」


 写見は腰に手を当てると、びしっと私の顔を指さしてきた。


「私の眷属にしてやる」


 偉そうに彼女は言い放つ。


 眷属。つまり、彼女という神に仕えて長く生きろと。


 しかし、写見はさらに大きく胸を張った。


「だから、もっともっと私に絵を教えろ」


 いつかにも聞いた文句に、私はいっそ呆れた気持ちすら湧いてきた。


 この子はまだあんな小さな約束を覚えていたのか。


 そんな私の心を悟ったのか、ぷくっと頬を膨らませて写見は私に顔を寄せてきた。


「約束したます。神との約束は守るものますっ」


「……そうですね。その通りでした」


 彼女の言いたい理屈がようやく分かって、私はため息をつきたい気分にすらなってくる。


 こんな無茶苦茶なことを押し通してきたのか。力づくにもほどがある。


 写見はふふんと誇らしそうに鼻を鳴らし、手にした筆をびしっと私に突き付けてきた。


「もう一回約束だ。ずっと、もっと、私に絵を教えろっ」


 私はそのまぶしさに目をほそめながら、優しく笑った。


 断る道理もない。


 だって私は彼女の師匠で、彼女は私の弟子なのだから。


 ――だけど師匠として、これだけは言っておかなければいけないと、私はぎろりと写見を睨みつけた。





「……写見。敬語は」


「教えろます」





 素直に写見は返事をする。


 そのまま大真面目な顔で見つめあい、どちらともなくぷっと私たちは噴き出した。


 私たちの笑い声が異界の空に爽やかに響き渡っていく。


 周囲の森が、なんだなんだとでも言いたそうにざわざわ揺れる。


 天が、地が、人が、神が、影さえもが。


 異界のすべてが、私たちの存在を祝福していた。





「おかえり。絵巻屋」


「ただいま。写見」

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