第63話 写見のわがまま

 ぴちゃん、としずくが地面に落ちる音がした。


 私が引っ張っていたはずの重さがするりと消える。


 振り返る。


 誰もいない。


 持ち主を失くした絵巻屋の羽織だけがふわりと浮いて、ゆっくりと地面に落ちていく。


 地面に広がっているのも、繋いでいたはずの手に残されているのも、ただの真っ黒な墨だけだ。


 足元に何かが落ちている。


 拾い上げる。


 黒いブレスレット。


 私が、絵巻屋にあげた。


 絵巻屋がいつも手首につけていた、ブレスレット。


 私はそれを拾い上げて顔を歪め――だけど、泣くことはしなかった。


「泣かないんだ」


 背後から事の声がする。


「てっきり声を上げて泣くものかと思っていたけれど」


 私は手の中のブレスレットを握り締め、大きく深呼吸をして、事に振り返った。


「泣かない」


 事の顔が、意外そうなものに変わる。


「まだ」


 一度言葉を切り、改めて息を吸って、伝える。


「まだ、私は描く」


 事は理解できないという顔をした。


 眉をほんの少し寄せて、肩をすくめる。


「弔いのつもりかい? 健気だねえ、『絵巻屋』ってやつは」


「違う」


 私が否定すると、事は茶化すような態度をやめた。


 そんな彼に、私は堂々と向かい合う。


「私はお前と話をする」


 じっと真剣に彼の目を見る。


 彼もまた私を見下ろし、ふっと息を吐いた。


「いいよ、お嬢さん。何を話したい?」


「お前のカタチは何だ」


 カタチ。本質。正体。


 私は、彼のそれが知りたい。


物事主ものことぬし


 事は答える。


「本当は名前なんてないし、この名前も誰かがつけたものだよ。誰だったかはもう忘れてしまったけれど」


 ほんの一瞬だけ、事は寂しそうな顔をする。


「僕はこの異界のルールだ。現世から流れてきた哀れな残骸たちを、まとめて形にして世界として再定義する、この世界の理そのものだ」


 私はその意味を噛み砕き、飲み込み、彼という見た目よりもずっと大きな存在に立ち向かった。


「神様ということか」


「まあ、広義で言えばそうかもね」


「だったら、立会人としては十分だな」


 私の言葉の意味が、最初はわからなかったのだろう。


 事は目を丸くし、私を見て、やがて何かに気づいたようにじわじわと笑みを広げていった。


「…………ああ、なるほど」


 くくく、と小さく喉を鳴らし、だんだんこらえきれなくなって大きく口を開いて笑い出す。


「はは! 君はなんてわがままな子だ」


「もっとわがままを言えって前に言われたます。だから言ってるます」


「あっはは! そう! そうなんだ!」


 事は腹を抱えて笑っている。


 私は真剣なまなざしでそれを見つめ続ける。


 笑い声を収めた事は、それでも顔面では楽しそうににんまりと笑って私に話しかけてきた。


「いいとも。僕が立会人になろう」


 私は大きく頷く。


 事は一気に真剣な、まるで龍神様のように威厳のある表情になった。


「さあお嬢さん。――いや、写見。絵巻屋の弟子。君は、何になりたい?」


 神様である彼からびりびりと吹き付けてくる波に耐えながら、私は答える。


「絵は、誰かのために描くものます」


 思い出す。


 絵巻屋が描いた絵を。


 私が彼女たちのために描いた絵を。


「文字は意味ます」


 思い出す。


 文字を大事にしなくて叱られたことを。


 筆の持ち方を教わったことを。


「名前は大切なものます」


 思い出す。


 名前をほしがっていた子たちのことを。


 私に与えられた『写見』という名前のことを。


 私の名前に込められた意味。


 名前という文字に込められた意味。


 そして、誰かのために絵を描きたいということ。


「私は『写見』ます。でも、もう写したものを見るだけじゃないます」


「……へえ、じゃあ何を?」


「描くます!」


 堂々と、まっすぐに答える。


「目に写るものも、写らないものも、綺麗なものも、怖いものも、全部全部描くます!!」


 足を踏ん張り、地面を足の裏に感じて、ここから繋がっている全てに向かって私は叫ぶ。


「この異界の全部を、私は描いていくますっ!!」


 墨窟を揺らして響き渡る私の声。


 立会人は、その宣言を受け止めた。


 事は私に向かって大きく腕を広げ、満面の笑みを浮かべる。


「いいだろう! ならば君は描くといい! 描いて描いて描いて、そうして生きていくといい!」


 ぶわりと足元から風が巻き上がり、私の見習いの羽織を揺らす。


 巻き上げられた墨がぐるぐると渦巻き、様々なモノの形を取って飛び回る。


 人を、獣を、物を、影を。


 木々を、街並みを、雲を、光を。


 異界のあらゆる存在を写し取り、墨たちは私の周りを舞い踊る。


 私は、その全てを見ていた。


 取りこぼさないように。全部を描いてあげられるように。


 やがて墨たちは一塊になって、私の前へと降りてきた。


 手のひらを出す。


 墨がぐっと集まり、固まるように姿を変える。


 そして手のひらの上に転がったのは、細長い一本の筆。


 ――私は、それを強く握り締めた。

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