第62話 置いていかない

 顔を伏せてどれだけそうしていたのかは分からない。


 いつの間にか、手と足の感覚がぼんやりとだが戻ってきている。


 自分を蝕む墨を、写見が肩代わりしたのだ。


 情けなくて、悲しくて、肩を震わせる。


 その時、ぱちゃ、と目の前の水面が揺れた。


 顔を上げる。


 そこには、むすっとした顔でこちらに手を差し伸べる写見の姿があった。


「ん」


「……ぇ」


「置いていかない」


 差し出された手と写見の顔を見比べる。


 写見は、力強く繰り返した。


「置いていかない」


 呆然とそれを見る。


 写見が手を差し出すのをやめる気配はない。


 絵巻屋はおそるおそる、その手に自分の手を重ねた。






 小さな手に引かれて、絵巻屋は外への道を上っていく。


 足元はふらついている。


 俯く視界も揺れている。


 全身の感覚が不確かだ。


 墨を肩代わりされたのは、ほとんど気休めだ。


 だから、きっと意味はなかったのだ。


 こんなことに意味なんて。


「なんで、こんなことを」


 独り言のように、か細くつぶやく。


 だけど写見は力強く答えた。


「お前、まだ挨拶もしてない」


 地面を見ていた絵巻屋はゆるゆると顔を上げる。


「友達と仲直りもしてない」


 写見は失くさないようにぎゅっと、絵巻屋の手を握り締める。


「お前にいなくなってほしくない奴がいる」


 一歩一歩しっかりと歩みを進める。


「お前に生きていてほしい奴がいる」


 その後ろをふらつきながら絵巻屋はついていく。


「私に、まだそんな奴がいますかね……」


 絵巻屋は弱々しく笑う。


「いる」


 写見は強く肯定する。


「お前が気づいてないだけ」


 そうやって断言され、絵巻屋はようやく写見の後ろ姿を見る。


 最初は与えられるばかりだった少女の後ろ姿を。


「私は……」


 何も言えなくなって、絵巻屋は再び顔を下げる。


 ぐらりと体が揺れる。


 顔がじわりと黒く覆われかける。


 信じられない。


 こんな自分が認められていいはずがない。


 力が弱くなった絵巻屋の手を、繋ぎ止めるように写見は握り込む。


「絵巻屋」


 名前を呼ばれて、ほんの少しだけ顔のもやが晴れる。


 写見は振り向かず、でもこちらの顔が見えているかのように口を開いた。


「私は、現世で生きて、現世で死んで、ここにいるます」


 それは、彼女が認めたくなかったこと。


 辛くて悲しくて苦しかった記憶。


 でも。それでも。


「苦しくても、生きていなければおにいさんに会えなかった。悲しくても、死ななかったらここに来られなかった」


 一言一言、確かめるように写見は言う。


 それでも、彼女は受け止めたのだ。


 受け止めて、それを認めたのだ。


 過去も今も。全部、全部、必要なことだったのだと。


「私、ここでたくさんのもの貰ったます」


 写見は正直な気持ちを、まっすぐに告げる。


 どんなにひねくれた男でも分かるように。ただまっすぐ。


「私は、お前と出会えてよかった」


 絵巻屋は目を見開く。


 顔のもやが晴れていく。


 その下から現れた本当の顔が、泣きそうにぐしゃりと歪む。


「ごめんなさい。私、アナタに酷いことを言いました」


 本当にそうだ、と言うように写見は首を縦に振る。


 その素直な反応がなんだかおもしろく見えてしまいながら、絵巻屋は自分が投げてしまった冷たい言葉を静かに打ち消す。


「アナタは要らない子なんかじゃありません。アナタは、『絵巻屋』に必要な子です」


「……!」


 写見の指が、きゅっと絵巻屋の手に食い込む。


 ……きっと、ここまで不安を我慢してきたのだろう。


 本当にそうだったらどうしようと恐ろしく思いながら、それでも追いかけてきてくれたのだろう。


 右足の膝がほとんど動かなくなり、ぎこちなく足を引きずりはじめる。


 そんな絵巻屋を、写見はしっかりと先導する。


「怖くなったんです」


 ぽつり、と。


「アナタを失いたくなくなったんです」


 絵巻屋は言い訳じみた言葉を口にする。


「でも大きなお世話でしたね」


 墨に蝕まれぐにゃりと歪んでいく視界の中、確かにその力強い背中を見る。


「アナタは私の、『絵巻屋』の弟子なのですから」


 写見は誇らしげに鼻を鳴らした。


 つられて絵巻屋も小さく笑う。


 穏やかな気分だった。


 今まで背負っていた全てのものが、すっかり下ろされてしまった気分だった。


 でも――やっぱり遅すぎた。


 ほんの少しだけ、遅すぎた。


 体の内側がどろどろに溶けていく。


 目の前の優しい少女に握られている指先の感覚がもうほとんどない。


 喉にこみあげてくる墨を悟られないように、必死で飲み下す。


 己がからっぽになっていく。


「まだお前も失わせない」


 写見は断言する。


 まるで後ろで消えていく絵巻屋が見えているかのように。


「まだお前に絵を教わりたい」


 ざらざらと霞んでいく視界で絵巻屋は写見を見つめる。


 その後ろ姿を、最後まで見ていたい。


「そういう約束だ。忘れたとは言わせないっ」


 強い口調で言いきられ、絵巻屋は小さく笑った。


「ふふ、そんな約束もしましたね」


 まだアナタがようやく線を引けるようになったころの話じゃないですか。


「あんなこと、アナタ覚えていたんですね」


 視界がぐっと狭まり、完全に闇に覆われる。


 もう、彼女の姿も見えない。


 歩みががくんと遅くなる。


 強く腕を引かれる。


「私は、お前に幸せに、なってほしい」


 ほとんど引きずるように、写見は少しずつ歩みを進める。


「そういう約束ます……!」


 その言葉が、閉じていく感覚に届き、絵巻屋はただ笑った。


「……ありがとうございます、写見」


 ぴちゃん、と。


 一滴、しずくが地面に落ちた。


 それが何だったのか確認することもできないまま、絵巻屋の意識はどろりとした闇の中に溶けていった。

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