第61話 契約

 ふらつく足を動かして、絵巻屋は竹林の中を進んでいく。


 静かだ。


 僅かな風と、葉が揺れる音しかしない。


 その中を、さく、さく、とゆっくりとした足音を立てて絵巻屋は歩く。


 一瞬、目の前に絵巻屋の羽織を着た女性の幻が見えた。


 豪快に笑いながら歩く彼女の背中を、荷物を持たされてぶつぶつ文句を言いながら追いかけていた過去の自分。


 あの時彼女が何を話していたのかは思い出せない。


 それだけいつも通りの光景で、これがいつか失われるなんて思ってもみなかったから。


 少し考えればわかることなのに。


 一つまばたきをする間に幻は消え去る。


 その代わりに竹林の奥に見えたのは、墨守の家だった。


 もうすぐここに来ることがわかっていたのだろう。家の前にはすでに墨守が立っていた。


「来ちゃったね」


「はい」


「……だから言ったのに」


「…………はい」


 忠告を聞かなかったことを優しく責められる。


 愚かなことをした。そういう自覚はある。だから反論はしない。


 墨守はいつも通りの柔らかな笑みで、墨窟行きの札を手渡してきた。


「鍵札だよ」


「ありがとうございます」


 それ以上の挨拶は必要なかった。


 墨守の家を通り過ぎ、竹林の奥へと進む。


 札の効力で空間がねじまがっていき、視界の端で竹林と岩肌が混ざり合う。


 もう一歩足を踏み出すと、固い岩の感触が草履越しに伝わってきた。


 墨窟。全ての墨が還るところ。この異界の心臓部。


 等間隔に灯りがともされた坂道を、深い深い穴の底を目指して、絵巻屋は下っていく。


 一歩歩みを進めるごとに、己の内側がゆっくりと溶かされていく感覚があった。


 まるで火の灯された蝋燭のように、とろけた己自身が墨となって、道にぽたぽたとあとを残していく。


 場違いにも、懐かしいな、と思った。


 最初にここに来たときもこうだった。


 師匠が目の前で死んで、絵巻屋を継ぐことを決めて、この坂道を下っていった。


 ただの墨になってしまった師匠を手にして。彼女をここに還すために。


 あの時は化身も一緒だった。


 二人とも黙ってはいたけれど。


 奥に進む。己の中の蝋燭が燃え尽きていく。


 ふらつき、壁に手をつく。


 だめだ。ちゃんと還らなくては。


 いつか現れる次代の絵巻屋のために、ここの最奥へたどり着かなければならない。


 思えば迷惑をかけつづけた人生だった。


 だからこれ以上、誰かに迷惑をかけるわけにはいかない。


 自分の力で、たどり着かなければ。


 足を踏ん張り、壁にもたれかかりながら、なんとか進む。


 指先の感覚はもうない。


 足もすぐになくなるかもしれない。


 ひゅ、と息を吸い込む。


 だけど吐き出されたのは空気ではなく、墨の塊だった。


 ごぼっと吐き出してしまったそれをうつろな目で見下ろし、また足を進め始める。


 思い出す。


 いつも隣にいた化身のことを。


 ずっと手を差し伸べようとしていた友人のことを。


 自分勝手に与え、自分勝手に突き放したあの少女のことを思いだす。


 悪いことをしたな、とただ思う。


 でもこれ以外になかったとも思ってしまう。


 本当はあったのだろう。自分がそれを無視していただけで。


 足を止める。


 目の前には行き止まりの部屋。


 ここが墨窟の最奥だ。


 ぽっかりと開いたその空間には浅く墨が満たされ、中央に大きな墨の池ができていた。


 足を踏み出す。


 ぱちゃ、と音がして墨の池に波が立つ。


 その浅瀬を進み、中央に広がる池へとたどり着く。


 絵巻屋は、黒々としたその池の縁に立つ。


 ふっと絵巻屋は岩の天井を見上げた。


「……師匠」


 小さく笑う。


「俺は、ちゃんと『絵巻屋』をやれたかな」


 目を閉じたまま力を抜く。


 体がぐらりと傾き、池へと倒れていく。


 そのまま絵巻屋の体は水面へと吸い込まれ――


「……絵巻屋っ!!!」


 すさまじい速さで飛来した男の体によって、浅瀬へと引き戻された。


 バシャン! と音を立てて、二人は浅瀬に倒れ込む。


 絵巻屋は己の上にのしかかっている自分を引き戻した男を呆然と見た。


「化、身?」


 本当に力の限り飛んできたのか、化身はぶつかった衝撃で動けずにいるようだった。


 絵巻屋は少しだけそれをきょとんと見た後、地面についた自分の手がぐにゃりと曲がる感覚に気づいて慌てて彼の下から這い出した。


「早く、いかないと、もう体が」


「だめダ、絵巻屋! まだ行くナ!!」


 立ち上がり、よろめいて進もうとする絵巻屋に化身はしがみつく。


 そのままの勢いで引き倒し、仰向けの彼の両肩を掴む。


 絵巻屋はそれから逃れようと暴れたが、溶けようとしている体ではうまくいかない。


「離せ化身!」


「いやダ!」


「お前は何をしてるのか分かってるのか!」


「離さなイ!」


 何を言っても化身は駄々っ子のように首を横に振るだけで、絵巻屋の上からどこうとはしない。


 絵巻屋は苛立たし気に声を張り上げた。


「どうして邪魔をするんだ! お前は、そういうモノじゃないだろう!」


 化身は、布に書かれた顔をぎゅっと歪める。


 絵巻屋の胸倉をつかみ上げる。


「確かにオマエはいつか消えるヨ! でも、それはまだ今じゃないダロ!!」


 今までの化身なら考えられない乱暴な行動に、絵巻屋は固まる。


 化身はぎりっと手に力を籠めて、絵巻屋の顔を引き寄せた。


「まだするべきことがあるダロ!」


 唾を飛ばす勢いで化身は叫ぶ。


「言ってやるべきことだってあるダロ!」


 作られた『顔』から、ぼろぼろと涙がこぼれだす。


 化身は顔を俯かせて、唸るように言った。


「写見を、泣かせるなヨォ……」


 絵巻屋は驚きで動けずにいた。


 墨窟の中に、化身がしゃくりあげる声だけが響いている。


 本当はありえなかったはずの化身の涙が、ぽたぽたと絵巻屋の服に落ちていく。


 小さな足音が最奥に近づいてきたのはその時だった。


 絵巻屋は首だけを動かしてそちらを見る。


 そこには息を切らして洞窟を駆け下りてくる少女の姿があった。


「写見」


 ここにいるはずのない彼女の姿に、呆然と名前を呼ぶ。


 写見はばしゃっと最奥に駆け込むと、体を折ってぜえぜえと息をした。


 絵巻屋はぽつりと言う。


「なぜ……」


「このままじゃ、終わらせない」


 肩を上下させながら写見は答える。


 そして、顔を上げた彼女の表情は、力強い決意に満ちていた。


「終わらせないます!」


 絵巻屋の体からへたりと力が抜ける。


 それを見て、ようやく化身は絵巻屋の上からどく。


 写見はぱしゃぱしゃと足音を立てながら近づいてきた。


 それを見つめていた絵巻屋は、苦しそうに歯を食いしばって、写見に大声をぶつけた。


「……来るな!!」


 写見はびくっと立ち止まる。


 絵巻屋はなんとか起き上がり、険しい目で写見を見た。


「無駄なんですよ」


 絵巻屋は静かに、彼女に告げる。


 まるで自分自身に言い聞かせているかのように、冷静に。


「遅かれ早かれ、『絵巻屋』はこうなるものなんです」


 あるいは師匠としての最後の矜持だったのかもしれない。


 師匠失格だとわかっていても、最後まで彼女に正しい事実を教えなければならない。


 そういう意地なのかもしれない。


 だけど、そこまで言ったところで、絵巻屋は声を震わせてしまった。


「今更、何をしても……」


 ――怖い。嫌だ。死にたくない。


 そんな安っぽい感情が、今更胸にこみあげてくる。


 最初に、あの人の弟子になったときに納得したはずなのに。


 命をすり減らして描いてきたのは自分自身だというのに。


 それでもまだ自分は、死ぬのが怖い。


 本当に、今更なのに。


「その通りだよ」


 いつの間にか現れた少年が、岩に腰かけていた。


 小綺麗な洋装の彼――物事主は、絵巻屋同様に静かに少女を諭す。


「無駄だよお嬢さん」


 振り向いた写見は、苦しさを我慢するように口を引き絞っていた。


 だけど、諦めるつもりはない。


 彼女の目は、そんな光に満ちていた。


「なんでここまで来ちゃうかなあ……」


 物事主はがしがしと頭をかく。


「『絵巻屋』というのはこういうものだ。異界に身を捧げていつか異界に還るこの世界の構成物質そのものだ」


 腕を広げて、少年はこの部屋全体を指す。


 異界の心臓であるこの場所を。


「彼が『絵巻屋』である限り、彼という存在は墨に溶けていく。そういうルールなんだから」


 意地悪な色も含めず、ただまっすぐに少年は告げる。


 それが少女を納得させることになるとは思っていない。


 だけど、伝えなければならないことだ。


 ……どんな結果になるとしても。


 写見は沈黙していた。


 静かに少年を見ていた。


 、糸口を探そうとしていた。


 ――やがて、ぽつりと写見は言う。


「なら、新しい『絵巻屋』がいたらどうだ」


 その場にいる全員が目を丸くした。


 写見はさらに尋ねる。


「新しい『絵巻屋』は、こいつを溶かす墨を代わりに貰えるか」


 墨を肩代わりする。


 少年はその意味を正しく受け止め、残酷さを理解したうえで、ただ事実で答える。


「そうだね。侵食は緩やかになるんじゃないかな」


 軽く肩をすくめ、さらに宣告する。


「侵食が止まるわけじゃないし、代わりに君の体も墨そのものになり始めるけどね」


 ハッと息をのむ音が聞こえてきた。


 少年は写見を睨みつける。


「無意味だよ。全てを先延ばしにするだけだ」


 だけど写見は目を逸らさなかった。


「それでいい」


 力強く繰り返す。


「それで、私はいい」


 決意に満ちた目だった。


 もう逃げないと、向き合って戦うと決めた目だった。


 物事主はその視線から逃れ、軽くため息をついた。


「だったら化身と契約すればいいよ。彼を身の内に取り込めば、君は晴れて次代の『絵巻屋』だ」


 どうぞ、と物事主は化身を腕で示す。


 化身は絵巻屋のすぐそばで、呆然と浮かんでいた。


「写見……」


「いいます」


 名前を呼ぶ化身に、写見は首を縦に振る。


「私は決めたます」


 その眼差しを受け止め、ゆっくりと一度まばたきをした後、化身はふわりと写見のほうへと飛んでいった。


「待っ……!」


 絵巻屋はその後を追おうとして、派手に転倒した。


 足が、体が言うことを聞いてくれない。


 こんな時に……!


 化身は写見の前にやってくると手を差し出した。


「本当にいいんだネ」


「うん」


 受け止めるように両手を差し出す。


 彼の手がほどけて、真っ黒な液体へと変わっていく。


 それを見て、写見は理解する。


 化身という存在は、異界の墨そのものなのだ。


「お前を飲めばいいんだな」


「アア。俺はそのためのモノだからネ」


 すうっと化身の姿が消え、写見の手の中に墨だけが残される。


 絵巻屋は立ち上がれないまま叫んだ。


「やめなさい写見……!」


 思い出す。


 何も持っていなかった彼女。


 過去に苦しんでいた彼女。


 かつて彼女を救おうとした男の言葉。


 願い。


 顔を歪めて必死に叫ぶ。


「アナタは逃げて幸せになるんでしょう! こんなものに成り果てるな……!」


 絵巻屋の悲痛な声が洞窟に反響して徐々に消えていく。


 写見は墨を持ったまま、顔だけで振り向いた。


「絵巻屋」


 絵巻屋と目が合う。ふわりと自然に笑う。


「私は、お前の弟子ます」


「ダメだ写見……!!」


 絵巻屋は必死に手を伸ばそうとする。


 でも、膝に力が入らない。


 足がうまく動かない。


 立ち上がれない。


 動けない。


 届かない。


 写見が手の上の墨に口をつけ、ゆっくりと傾ける。


 異界のすべてを構築する真っ黒な墨が、手を伝って流れて、落ちて、小さな口に吸い込まれていき――


 ――ごくり、と喉が鳴った。


 化身を宿した墨が、完全に彼女の内側に入る。


 己の体から、絵巻屋としての力が抜けていく。


 地面に満ちた墨を経由し、彼女へと力が移っていく。


 まるで新しい獲物が罠にかかったのを喜ぶように、墨窟がごうごうと揺れる。


「あぁ……」


 伸ばされていた絵巻屋の腕から力が抜けて、地面にぱしゃんと落ちる。


 ごうごう、ごうごう。


 墨窟が、この異界そのものが、新しい『絵巻屋』の誕生に、喜びで体を震わせている。


 ……契約は為された。


 これでもう、彼女が『絵巻屋』だ。


「なんで……」


 力なくうなだれたまま、弱々しく絵巻屋は呟いた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る