第60話 走る

 走って、走って、逃げていって。


 誰にも見られたくなくて、どこにもいたくなくて。


 さらに走って逃げていって。


 気付くと私は、どこなのかすら分からない路地裏でぜえぜえと壁にもたれかかっていた。


 息が苦しい。目の奥が、胸が苦しい。


 顔がひどく歪む。


 ぶつけられた彼の言葉が頭にがんがんと響いている。


 もう弟子じゃない。出ていけ。もう要らない。邪魔だ。


 ひぐっと息を吸い込む。


「要らない、って」


 全身が震えている。


 受け入れることにしたあの過去が、また目の前にある。


 置いていかれる。手を離される。捨てられる。


 私が、要らない子だから。


「いやだよぉ……」


 ずるずるとしゃがみ込む。


 目をぎゅっと閉じて首を横に振る。


 声も息も震えてしまって、もう何もわからない。


 ぐちゃぐちゃだ。


 悲しくて、苦しくて。


 手を伸ばしたいのにもうその相手もいなくて。


「捨てないで……」


 いやだ。一緒にいたい。一緒にいたかった。戻りたい。でも、もう要らないって。


 もう一度大きく、苦しい息を吸う。


 絵巻屋は、私はどこにでも行けると言った。


 でも、でも、どこに行けばいいといいのか。


 私の場所はあのお店だけで、私がいたいのは二人の隣だけなのに。


 私は、ずっとあそこにいたかったのに。


「うううう……」


 唸りながらうずくまる。


 ――その時、急に空気が生ぬるく動かないものになった。


「絵巻屋の弟子じゃなくなっちゃったんだね、お嬢さん」


 すぐ隣から、声がした。


 見上げる。


 事が、壁にもたれかかっている。


 すぐに彼が私をからかいに来たわけではないことはわかった。


 じゃあ何をしに来たんだろう。


 ぐちゃぐちゃのままの心で、事を見る。


 事はふいっと私から目を逸らして、うーんと伸びをした。


「なっちゃえばいいじゃない。神様にさ」


 軽い調子で言われ、私はぽかんと口を開ける。


 神様。


 誰かに望まれる『見るための神様』。


 ……それもいいかもしれない。


 少なくとも神様になれば、誰かが私に助けを求めてくれる。


 私が、いてもいい場所ができる。


 そのほうが、まだ――


 しかし、事が続けた言葉に、私はぴたりと動きを止めた。


「次の『絵巻屋』には他の誰かをあてがえばいいだけだし」


 ……あれ。


 どうして事はこんなことを言うんだろう。どうして急に次の『絵巻屋』のことなんか。


 隣を見上げる。


 事を見る。


 その本質を、隠された意図を


「……絵巻屋、は」


 震える声で問いかける。


「私に一緒にいてほしくなかったますか」


 事は何も答えず視線をこちらに向けた。


 顔が、ぐしゃっと歪んだ。


「『絵巻屋』と一緒にいてほしくなかったますか」


 事は冷たい目で私を見下ろして沈黙していたが――やがて、大きくため息をついて肩をすくめた。


「本当に厄介だね、その目は」


 それは、私の言葉を肯定しているのと同じだった。


 私は慌てて立ち上がって、元来た道を戻ろうとする。


 帰らないと。何とかしないと。行かないと。


 そんな私を、事は呼び止めた。


「無駄だよ。今更だ」


 立ち止まる。


 彼がただ事実を言っているのはわかった。


 だって彼は意地悪な奴だけれど、いつだって本当のことを言う人だから。


 私は立ちすくみ、必死で考えて、考えて考えて考えて、ようやく彼に振り向いた。


「事」


「何かな?」


「教えてほしいます」


 事は軽く目を見開く。


 私はそんな彼をまっすぐに見て問いかけた。


「『絵巻屋』は、本当はどういうモノなのますか」


 あの二人から教えられなかったことだ。


 きっとあの二人が隠したかったことだ。


 でも私はそれを知らないといけない。


 知らなければ、きっと何をすることもできない。


 事は私を見ている。私は、決して彼から目をそらそうとしなかった。


 逃げない。逃がさない。ちゃんと話してもらう。


 そう気持ちを込めて。


 ――やがて、事は目を閉じて大きくため息をついた。


「僕は語らないよ。それが今の絵巻屋への義理立てだ」


 それでも私は彼から目を逸らさなかった。


 諦めない。話してもらうまでは絶対に。


 ほとんどにらみつけるように真剣に事を見る。


 すると事はひょいっと肩をすくめた。


「でもまあ、


 そう言い捨てると、ぷいっと事はどこかに歩き出そうとする。


 他の知ってる子。


 絵巻屋のことを、知っている人たち。


 そうか。この街のみんなは、絵巻屋のことを知っている。


 私より、きっとずっと。


 歩き去っていく事に、私はばっと頭を下げた。


「ありがとうます、事」


 事はちょっと黙った後、背中を向けたままひらっと手を振って消えていった。


 それを見届け、私は――走り出した。





 走る。


「もう絵巻屋さん代替わりされるのね……」


 走る。


「寂しくなるなあ。無愛想だったけどいい御仁だったのに」


 走る。


「『絵巻屋』とはそういうものだ」

「お嬢さんダメなんだ。これだけは変えられないんだよ」

「きっと絵巻屋さんはきみを逃がそうと」


 走る。走る。走る。


 話を聞けば聞くほどどうしようもない事実が耳に入る。


「……妙、せめて見送りたかったな」


 病院で道行が言っている。


 彼の告げる事実が体に突き刺さる。


 それでも走る。


 何かあるかもしれない。私の知らない方法が、何か。


 息が切れる。


 喉の奥に血の味がする。


 足の裏がいたい。


 膝が震える。


 足がもつれる。


 何度も何度も転びそうになる。


 痛いのも苦しいのも我慢して、ただ息を吸い込む。


 早く走れないこの足が憎い。


 すぐ息が上がるこの体が憎い。


 今は逃げるために使ってるわけじゃないのに。


 もう逃げないために使っているだけなのに。


「いい絵を描く方だったのにねえ」

「優しい線を描く方だったわ」

「みんな、あの絵巻屋さんのこと好きだったのになあ」


 街の人たちが悲しんでる。


 みんな感謝している。


 みんな、絵巻屋のことをちゃんと考えていた。


 この世界は、絵巻屋を愛していた。


 それなのに。


「いやだ」


 走りながら情けなく喘ぐように言う。


「いやだ、いやだ……!」


 歯を食いしばる。止まりそうになる足を必死に動かして叫ぶ。


「置いていかれるのも、置いていくのも、もういやだっ……!」


 走る。走る。走る。


 事実を探して。


 方法を探して。


 教えてくれる全ての人を頼って。


 そして――ようやく私は立ち止まる。


 よく見慣れた、絵巻屋の店。


 その入り口に駆け込んで、私は立ち止まる。


 畳の上、一人で浮かんでいた化身が、驚いた顔で私を見ていた。


「……なんデ」


「聞いた」


 まだ上がる息のまま、化身に言う。


「絵巻屋のこと知ってるみんなに聞いた」


 化身は目を見開く。


「描けば描くほど、『絵巻屋』の体はどんどん墨になっていくんだって」


 ふらつく足を踏ん張ってしっかりと立つ。


「『絵巻屋』になった奴は、長く生きられないんだな」


 口を動かす。


 皆に告げられた事実を、自分に浸みこませるように一言ずつ。


「アイツは、もう死ぬんだな」


 化身はすぐに答えなかった。


 その態度が、私の言葉が本当のことだと示していた。


 顔を歪めて、その真実を受け止める私に何か声をかけようとしたのか、化身は小さく口を開いた。


「……お嬢さん」


「わかってるっ! 全部、聞いてるっ……」


 化身の言葉を遮って叫ぶ。


「『絵巻屋』を助ける方法なんてないって」


 痛いほどこぶしを握り締め、知ってしまった事実を口にする。


「できることは何もないって、全部聞いてる!!」


 誰に聞いても答えはそうだった。


 最初から決まっていた。変えられない。


 何もかも手遅れなのだと。


 すると化身は急に険しい顔になった。


「そこまでわかってるなら、なんで戻って来たんダイ」


 私を責めている。


 戻ってくるべきではなかったと言っている。


 何もできることがないのなら、戻ってきたところで。


 でも。


「私は絵巻屋の弟子だ」


 静かに、化身に告げる。


「いつかアイツみたいに『絵巻屋』になる、絵巻屋の弟子だ」


 強く、強く、そう宣言する。


 化身の顔が見たことがないほどぐしゃぐしゃに歪んだ。


 悲しみ、悔しさ、怒り。


 全部が入り混じったひどい顔。


「七年ダ」


 絞り出すように苦しそうに化身が言う。


 そして、大きく息を吸い込んで私に向かって叫んだ。


「アイツは三年! うんと長かった先代でも七年だったんダ!」


 その叫びが、隠してきた感情がぶつかってくる。


 今まで見てきた光景を、存在を、何もかもを感情にして私にたたきつけてくる。


「お前は、大人にもなれないまま死ぬつもりカ! !」


「それでも!」


 大声で遮る。


 喉のあたりでせき止められていた感情が、ようやく上ってくる。


 その勢いにこらえきれなくなって、顔をぐしゃぐしゃにして、私はそれがあふれ出るままにした。


「私はアイツを追いかける……!」


 視界がぼやける。


 目から溢れた何かがぼろぼろと落ちていく。


「まだ、絵巻屋の背中を追いかけていたいますっ……!」


 化身を睨みつけながら、ひぐっひぐっと何度もしゃくりあげる。


 彼はぽかんと口を開けて私の顔を見ていた。


「お嬢さん、泣いて……」


「泣いてないます!!」


 涙声でぐちゃぐちゃになりながら叫ぶ。


「まだ……まだ悲しいことは起こってないます!」


 流れ出る涙を、そでで乱暴にぬぐう。


 そして、化身に駆け寄ってその手を掴んだ。


「化身! 絵巻屋のところまで、案内しろます!」


 宙に浮かぶ彼を引きずり降ろして、私は叫ぶ。


「悲しいままで、終わらせないます!!」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る