最終章 少女は絵を描いて生きていく

第59話 最後にしたいこと

 店の奥、彼が『絵巻屋』となってから使われていなかった布団で、絵巻屋は眠っていた。


 化身はすぐ近くに浮いて、久しぶりに見る彼の寝顔を見下ろしている。


 『絵巻屋』は睡眠を必要としない。『絵巻屋』は食事を必要としない。


 普通のモノとしての在り方を歪め、短い生を燃やし尽くして、異界の礎となることだけが『絵巻屋』の使命。


「いい加減、疲れてきちまったナァ……」


 ぽつりとつぶやいた言葉は、誰にも聞かせるべきではないものだ。


 自分たちがいなければこの異界は維持できないのだから。そんなわがままが通用するはずもない。


 お嬢さんに描いてもらった顔を歪めて、化身はうつむく。


「顔があるとこういうのが隠せないのは面倒だナァ」


 でも誰にも見られるわけにはいかない。


 化身がぶんぶんと首を横に振って、浮かんでしまった思いを振り払っていると、絵巻屋の瞼がぴくりと動いた。


「お」


 身を乗り出して顔を覗き込む。


 ゆっくりと目を開けた絵巻屋と目が合った。


「化身……?」


「起きたカイ? 体の調子ハ?」


 無理矢理、笑顔を作って尋ねる。


 絵巻屋は自分の腕を持ち上げて右手を見た。


「体が、ある……」


「関所の霧タバコの在庫を全部ひっくり返して、存在を保ったんだヨ」


 まだうつろな目が化身に向けられる。


「でも一時的なものダ」


 ぴしゃりと言ってやると、絵巻屋は腕を落として目を閉じた。


「そう、ですか」


 絵巻屋はぽつりと言う。


 しばらく化身が黙っていると、絵巻屋は気怠そうな動きで起き上がり、布団の上でうつむいた。


「思っていたよりも、ずっと早かったですね」


 自嘲するように言う絵巻屋に、化身は思わず口を開いた。


「お前がそう望んだんだろウ、絵巻屋」


 絵巻屋の肩がぴくりと震える。


 コイツも最初からこんな風だったわけじゃない。先代が死んで、置いていかれて、コイツは決定的に変わってしまった。


 目の前で失った師匠のあとを追いかけて、追いかけて、追いかけて。死に方まで追いかけたのだこの馬鹿は。


「望み通りになって満足カイ?」


 いら立ちを籠めて言ってやると、絵巻屋は沈黙した。


 何も言い返せないのだろう。きっと自分が馬鹿なことをしてきたと自覚しているのだから。


 まったく。これじゃあ先代が泣いてるヨ。


 聞こえないよう、口の中だけでそうつぶやく。


 それ以上何も言おうとしない絵巻屋に、化身は小さくため息をついた。


「これで最期だからナ。好きに過ごすといいサ。何しても俺は止めないヨ」


「……そう、ですね」


 ぼんやりしていた顔を歪めて、絵巻屋は答える。


 そしてふらつきながらいつもの服装に着替え、羽織を羽織った。


 しばらく眉間をつまみ、いつも通りの仏頂面を作る。不調を隠そうとしているのだ。無駄だとは思うが。


 部屋から出て、店へと出ていく。


 店ではお嬢さんが心ここに在らずといった様子で拭き掃除をしていた。


 絵巻屋はそれを目を細めて見て、ぐっと唇を引き絞った。


「写見」


「絵巻屋!」


 声をかけると、お嬢さんはパッとこちらを振り向いて駆け寄ってきた。


「そこに座りなさい」


 言いながら、畳に腰を下ろした絵巻屋の前に、お嬢さんはちょこんと座る。


 沈黙。


 何かを言いよどんでいる絵巻屋を、お嬢さんはそわそわと見回していた。


「なあお前、体調は……」


「――写見。アナタは破門です」


 お嬢さんの言葉を遮り、絵巻屋は告げる。


 化身はぎょっとして絵巻屋を見た。


「は、もん……?」


「絵巻屋の弟子失格ということです。アナタはもう絵巻屋の弟子ではありません」


 彼は淡々と告げる。


 お嬢さんは唇を半開きにしたまま、視線をうろうろとさまよわせている。


 可哀想に、とても混乱しているみたいだ。


 化身は絵巻屋を責めようとして――止めた。


 ……そうか。これがお前の『最期にしたいこと』か。


「な、なんでますっ、私何か悪いことしたますかっ」


 絵巻屋は何も答えない。


「あの、あのっ、私っ、わたしっ」


 絵巻屋は何も答えない。


「やだますっ、ここにいさせてほしいますっ、捨てないでほしいますっ……!」


 震えながら必死でお嬢さんは言う。


 だけど絵巻屋は仏頂面のまま何も答えない。


 お嬢さんはそんな絵巻屋を見ていられなくなって顔を伏せた。


 ……お嬢さんの『目』なら、しっかりと見ておけば、きっとコイツが何をしようとしているか分かっただろう。


 だけど今のお嬢さんにはそんな余裕はなかった。


 それだけ、絵巻屋の言葉と態度はお嬢さんの心を抉っていた。


 お嬢さんはうつむいたまま視線をせわしなく揺らし、震える唇で言った。


「わ、私、邪魔ますか」


「ええそうです。アナタが邪魔になったんですよ!」


 ほとんど泣きそうな声で絵巻屋は叫ぶ。


 お前のほうがそんな顔をしてどうするんだい、絵巻屋。


「もうアナタは要りません。ここを、出ていってください」


 絵巻屋の指が、勢いよく外を指す。


 お嬢さんはびくっと肩を震わせて、慌てて顔を上げた。


「そんな、わた、私、どこに行けば……」


「どこへなりとも行けばいいでしょう! アナタを置いてくれる場所ならいくらだってあるんですから!」


 叩きつけるように絵巻屋は言う。


 お嬢さんは目を見開くと、まるで紙をぐしゃぐしゃにつぶしていくようにゆっくり顔を歪め、弾かれるようにして店から走り去っていった。


 走るのに慣れていない不器用なお嬢さんの足音が徐々に遠ざかっていく。


 残された絵巻屋は、まるで全力疾走した後のように荒い息で体を脱力させていた。


 化身はただそれを見下ろす。


 コイツは全部わかってて言ったんだろう。


 あの言い方が、一番彼女を傷つけるということを。


 だけど化身は素直に彼をなじることができなかった。


 わざとらしいこの行動の意図ははっきりしている。誰でも見ればわかる。


 あの子を『絵巻屋』という運命から引き離すのなら、これが最後のタイミングだ。


 そして、存外に頑固なあの子を突き放すのなら、これぐらいのことを言わなければ立ち去ることすらしないだろう。


 お嬢さんが去っていった表の通りから、モノたちが行き交う声が聞こえてくる。


 店の前には『閉店中』の立て札が立っているから、誰もこちら側に入ってくることはない。


 街のモノたちも知っているのだ。もうすぐ『絵巻屋』が代替わりするということを。


 化身にはそれがひどく、遠いものに感じられた。


 結局、本当の意味であちら側からこちら側に手が届くことはないし、こちら側からあちら側に手を伸ばすこともできない。


 決定的に異なってしまった存在なのだ。彼らと自分たちは。


 いつだったか『絵巻屋』を『生贄』と例えたあの洋装の少年を思い出し、化身は小さく笑った。


 確かにその通りダヨ、物事主。『絵巻屋』は、こちら側に捧げられた哀れな『生贄』だ。


「……最初は、全て押し付けてしまうつもりだったんですよ」


 ずいぶんと長い間黙り込んでいた絵巻屋がぽつりと言う。


 もしかしたら、誰かに話しかけているわけではないのかもしれない。


 化身は黙ったまま絵巻屋に視線を向けた。


「今は」


 絵巻屋は眩しそうに外の陽光を見る。


「私の時のようにならなくて、よかったと思っているんです」


 穏やかな顔だった。


 コイツにこんな顔ができたのかと思うほどには。


「師匠のように目の前で死ぬこともなく、私からも離れていった」


 絵巻屋は顔を伏せて、ふっと笑う。


「あの子に傷を残さなくて、本当によかった」


 化身は何か言いたそうに口を開きかけたが、結局何も言わないことにした。


 今更言ったところでどうしようもないことだ。


 その代わりに化身は自分が尋ねるべきことを口にする。


「……次代の絵巻屋はどうするんダ?」


「できれば、あの子以外を選んでもらえませんか」


 顔を上げた絵巻屋は、ほとんど泣きそうな顔で笑っていた。


「あの子には早すぎる」


 今更、それを言うのか。


 口から出かけた言葉を飲み込む。


 自分の意思で引き取って、自分が名を与え、居場所を与え、他にもたくさんのものを与えた。あの子もそれを受け取った。


 それを全部、そのたった一言でなかったことにしろというのか。


 そう思うんだったら、最初からこんなことしなければ……!


 口にはしなかったが化身の言いたいことは分かったのだろう。


 絵巻屋は化身に深く頭を下げた。


「すみません。でも、お願いします」


 化身は言葉を失ったまま、下げられたままの絵巻屋の頭を睨みつける。


 今更。今更。今更。


 なじる言葉をぶつけようと何度も口を開きかけ、すんでのところでやめる。


 何をしようと何を言おうと、この男は頭を上げないだろう。


 化身にはその程度のことは理解できてしまっていた。


「……わかったよ、この馬鹿」


 絞り出すように小さく答えると、ようやく絵巻屋は頭を上げた。


「ありがとうございます」


 笑っている。


 自分勝手に。無責任に。


 その顔を見ていられなくなって化身は目を逸らす。


 ……でも、あの子に様々なものを与えたのはこの男なのだ。


 何もなかった彼女を救ったのは、どうしようもなく愚かなこの若造なのだ。


「私は、酷い師匠ですね」


 絵巻屋は力なく言いながら、再び店の外に目を向ける。


 化身は黙ったまま、ただ絵巻屋の隣にあった。


 それからどれほどの時間が経ったのか。


 ほんの十分だったかもしれないし、もっともっと長い間だったかもしれない頃。


 絵巻屋は静かに立ち上がった。


「そろそろ行きますね」


 草履を履き、ふらつく体を精一杯しゃんと伸ばして、店の出口へ向かう。


 最後に一度、絵巻屋は振り返った。


「さようなら、化身」


「ああ。サヨナラ、絵巻屋」


 まるで儀式のように言い合い、絵巻屋は店を後にする。


 残されたのは静かな店内と、ぷかぷかと浮かぶ化身だけだ。


 絵巻屋が遠ざかるのをしっかり聞き届けた後、化身は小さくため息をついた。


「まったく」


 化身は持ち主のいなくなった文机へと目をやる。


「残された奴がそれで済むと思ってるのかネェ」


 ……お前自身、そうやって残された側だろうに。


 化身は目を閉じ、決して届くことはない街の喧噪に耳を傾けた。


「本当に酷い奴だよ、お前ハ」

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