第58話 泣いて笑って

 写見の体を飲み込んだ黒のアヤシは瞬く間に巨体の異形となり、門を半分覆うほどの大きさまでになった。


 近くにいた役人たちが悲鳴を上げながら退避していく。


「くっ……!」


 絵巻屋は筆を構える。


 カタチはわかった。ならば定義してしまえばこちらのものだ。


 しかし、そんな彼の腕に化身は飛びついた。


「駄目ダ、絵巻屋!」


「!?」


「今あれを定義したら暴走したまま実体を持っちまウ!」


 腕を押さえつけられたまま、絵巻屋はアヤシを睨みつける。


 己の弟子が呑まれ、今まさにこの場を満たそうとしている恐ろしい存在を。


「ならばどうすれば!」


 化身に叫ぶも、何も答えない。


 きっと彼にもわからないのだ。


 絵巻屋はアヤシの向こう側に見える門を見て、ハッとする。


 門がこじ開けられて、少しずつ黒色が流れ込んでいる。


 あれは、まだ大きくなる。


 このままでは関所全体が、いや、この異界全体がこのアヤシに蹂躙されることもありえるかもしれない。


 絵巻屋は歯ぎしりをして、化身を振り払い、ぼこぼこと泡立つアヤシへと筆を向けた。


「せめて、足止めを」


 体中に流れる墨を巡らせる。


 ぎしぎしと全身がきしみ、墨の奔流が体を食い破りそうだ。


 この世界を定義する黒色を筆へと集中し、アヤシを包む膜を想像する。


 筆を宙へと勢いよく走らせると、まるで波のようにアヤシへと墨が殺到した。


「ぐ、ぅ……」


 血のようにめぐっていた墨が引き、足りない部分を補おうとする引力に体がひしゃげそうになる。


 まだその場を離れていない役人を視界の端に捉え、絵巻屋は叫んだ。


「皆は避難を!」


 バタバタと慌ただしい足音を立てて、役人たちは去っていく。


 しかし、逆に近づいてくる足音が一つあった。


「妙!」


 悲鳴じみた友人の声に、絵巻屋は唇を噛む。


 そして、アヤシを包む膜を支える筆を震わせながら、必死で彼に叫んだ。


「足手まといだと言っているんです! 早く!!」


 背後で足音が止まった。


 一瞬、ほんの一瞬だけ、絵巻屋の意識はそちらに向けられてしまう。


 そしてその一瞬は、アヤシが絵巻屋の盾をすり抜けるのに十分すぎる隙だった。


 ゴオッと音を立てて、アヤシの腕のうちの一本が絵巻屋の背後へと飛んでいく。


 何かにぶつかる音がする。


 絵巻屋は思わず振り返り、目を見開いた。


「みちゆき」


 唇が勝手に彼の名前を呼ぶ。


 顔の大半を失い、床に倒れる友人の名前を。


「道行っ……!!」


 思わず駆け寄ろうとした絵巻屋に、容赦なくアヤシは殺到する。


 絵巻屋は筆を構えなおして、もう一度盾を構築した。


「ぐっ……」


 ガンッ、ガンッ!


 アヤシの巨体が勢いよく何度も体当たりしてくる。


 絵巻屋は歯を食いしばってそれを受け止めながら、絵を描くための紙を宙から取り出し、片手を振り切って後方に飛ばした。


 飛び去った紙は、道行の顔半分にはりついてじわっと墨をにじませる。


 辛うじて残されていた道行の右目がぴくっと動く。


 それを視界の端で見届け、絵巻屋は迫るアヤシの奔流に目を向け直す。


 あれだけで顔の全てが治ることはないが、応急処置にはなるだろう。


 いずれ、の絵巻屋が治療してくれるのであれば、それでいい。


「――化身!」


 唾を飛ばす勢いで振り返らずに叫ぶ。


 襲い掛かってくる力に腕はがくがくと震えて、額には汗がにじむ。


「彼を安全な場所に!!」


 背後で衣擦れの音が聞こえた。


 声で答えることはなかったが、化身が道行を引きずって後方へと逃げていったのだろう。


 ガゴンッ!


 ガリッ


 ガリリッ、ギチチ……


 きっと、ただの体当たりだけではすぐに破れないことを察したのだ。


 アヤシは爪を出して、墨の盾に傷をつけはじめた。


 その箇所を補うために、絵巻屋はさらに己を構築する墨を絞り出す。


 視界がぐらぐらと揺れ、次第に自分の内側が空洞になっていく。


「ぐ、ぁ……」


 既に墨へと置き換わってしまった血液も、それが巡っていた筋肉も、内臓も、すべてを賭してもまだ足りない。


 はっきりとわかってしまった。


 もう自分の体は、ここで限界だ。


「ぐ、このっ……!」


 アヤシの黒い爪が大きく振り上げられる。絵巻屋は霞む視界で鋭くそれを睨みつける。


 その時――どろりと、時間が緩慢なものになった。


 アヤシの動きがゆっくりしたものになり、絵巻屋はほとんど倒れるように腕から力を抜く。


「まさかあの子の内側から侵入してくるとはね」


 聞き覚えのある声が斜め後ろから響いてくる。


「あの子の内面とアヤシのカタチが共鳴でもしたのかな? まったく、さすがの僕も予想外だよ」


 ぼたぼたと地面に墨の跡を垂らしながら、絵巻屋はその声を聞く。


 アヤシの攻撃は止まった。


 だけどこの空間は永遠ではない。


 彼の力によって、一瞬を長く引き伸ばしているだけなのだから。


 いずれ、限界は来る。


 場違いなほど小奇麗な服装の少年――物事主ものことぬしが、絵巻屋の横に立った。


「やあ絵巻屋。覚悟は?」


 にこりと笑って手を上げるその姿はいつも通りだ。


 でもそこに込められた意味を、絵巻屋は正しく理解した。


 彼へと向き直り、絵巻屋は恭しく頭を下げる。


「はい。この異界へ最後のご奉公をいたします」


 物事主はひょいっと片眉を上げると、いつになく真剣な顔を作って強大なアヤシへと向かい合った。


「僕が一瞬だけ大きく門を開けるから、君が異界の外側に押し込むんだよ」


「……写見は」


「奴を門の向こう側にはじき出せたら特大サービスで無理やり引きずり出したげる。あの子も無傷で済むとは思わないけど……まあ、君への手向けだよ、絵巻屋」


 絵巻屋は口元だけで笑った。


 そうか。よかった。


 今の自分にはそれが上手くいくことを祈るしかない。


 きっとそれがなされる瞬間、自分はもう存在を失っているだろうから。


 筆を構えなおす。


 これが本当に最後だ。


 命は惜しまない。これが、俺の決めたことだから。


「……やめろ、妙っ!」


 背後で泣きそうに叫ぶ声が聞こえた。


 絵巻屋は振り返り、ふっと笑った。


「ありがとう、道行。……ごめんな」


 愕然とする友人の目を振り切り、アヤシへと目をやる。


 今から、己の命と引き換えに退ける存在に。


 思わず、乾いた笑いが彼の唇から漏れた。


「はは。これじゃ師匠と同じになっちゃったな」


 同じように自分と異界を守るために、己の目の前で命を散らした師匠。


 彼女と同じ背中を、友人に見せることになるとは思わなかった。


「……写見が目の前で見なかっただけよしとするか」


 ぼそりと口の中だけでそう呟き、絵巻屋は己の中の残り少ない墨へと意識を集中させた。





 いつも、誰かの生きている音が聞こえていた。


 自分たちは決して出られない内側にいて、ただ外側の世界を夢見ることしかできなかった。


 温かい子宮の向こう側。


 冷たいガラス窓の向こう側。


 誰かが笑っていた。


 誰かが話していた。


 誰かが泣いていた。


 誰かが遊んでいた。


 誰かの声、誰かの動き。


 誰かの生。


 いつか自分もそこに行けたらいいな。


 きっとみんなそう思っていた。


 ――でも。





 確かではないぐちゃぐちゃの何かが蠢いている。


 ぐるぐると同じ場所をめぐりながら、何かを求めている。


 誰かを求めている。


 囁く。


 本当なら存在しなかったはずの声が、囁きあう。


 なきたかった なきたかった なきたかった なきたかった……


「……なきたかった」


 こぽ、と泡を吐くような音がして、目がゆっくりと開く。


 ここはどこだっけ。


 なにがあったんだっけ。


 指を動かそうとする。


 どろどろに溶けていた指先が徐々に形を持って、ぴくりと動く。


 とくん、とくん、と自分の鼓動が小さく聞こえる。


 ぼんやりとぶれていた焦点がはっきりしてくる。


 やがて温度が戻ってきて、周りが温かい液体に満たされていることに私は気が付いた。


 そうだ。


 おなかの中からアヤシが出てきて、それで。


 赤ん坊のようにぎゅっと丸まっていた体を動かしてみる。


 まるでお風呂にもぐっているように動きづらかったけれど、なんとか立つ姿勢になることはできた。


 あたりを見回す。


 誰かがいる。


 たくさんの小さな蠢く何かたち。


 母親の胎の中で、人型になったばかりの肉の塊たち。


 彼らは目を閉じているのに、確かに私を見つめていた。


「あかちゃん」


 ぽつりと言うと、彼らの囁きは大きくなった。


 最初は緩やかだった声が、どんどんうねって、重なりあって、胎の中に響き渡る。


 ――こっち


 ――ねえ こっちだよ


 ――さわって


 ――こっちをみて


 ――みて


 ――ぼくたちを


 みんな、私に手を伸ばしてくる。


 わらわらと、我先にと。


 見てほしいのだ。私が『見る神』になりうる存在だから。


 でも、なぜか彼らは、決定的に私を喰らい尽くそうとはしてこなかった。


 それはまるで――何かを怖がっているみたいだった。


 見てほしい。でも見てほしくない。


 近づきたい。でも近づきたくない。


「……お前たち」


 彼らをじっと見て、私はぽつりとつぶやく。


「自分たちが死んだこと、認めたくないのますか」


 ざわめきが、ぴたりと止んだ。


 残っているのは、こぽこぽと羊水が揺れる音だけだ。


 誰も動こうとしない。でも、その気持ちは私の内側からこみあげてきていて、痛いほど理解できてしまった。


 認めたくない。


 自分たちが、生きようとしていたことを。


 認めたくない。


 自分たちが、生きられなかったことを。


 もし認めてしまったら、この苦しみを、この悲しみを、肯定することになるから。


 そんなもの、本当はなかったことにしたいから。


「私も、同じます」


 目を伏せる。


 その途端に、あの恐ろしい記憶たちが湧き出てきて、私は自分の体を両腕で抱いた。


 今まで感じた痛みが全身に跳ね返ってきて、体ががくがくと震える。


 あの部屋が、公園が、掴まれていた手が、去っていく背中が、お供え物が、待ってくれなかった人が。


 見たくないのに見えてしまう。


 見てきたから。見ているだけだったから。


「苦しいの嫌ます。痛いのも嫌ます」


 生きている間にあったこと。死んでしまうときにあったこと。


 恐ろしくて、悲しくて、直視したくなくて。


「なかったことにしたい……!」


 私の内側で、彼らの感情が荒れ狂う。


 矛盾している、だけど張り裂けそうなほどわかってしまう感情の渦に飲み込まれそうになる。


 ――こわい。いやだ。助けて。


 みんなが泣きじゃくっている。


 もうずっと前に終わってしまって、取り戻すことができるはずもなくて、どうすることもできずに立ち止まって、ただ泣きじゃくっている。


 私はうつむいたまま、唇にきゅっと力を籠めた。


 救いたい。彼らの力になりたい。


 どうしようもなく追い詰められた私が、同じように追い詰められた彼らに手を差し伸べられるのなら。


 きっと、それは、私にとっても。


 私はひきつってしまいそうな喉を動かしてなんとか動かして息を吸い込み、小さく言葉を吐き出した。


「でも」


 私は彼らをしっかりと見る。


 彼らのために、目を逸らさないと決めた。


「認めなきゃ、いけないのます」


 確かにあの時、私は、遊びたかったのだ。


 確かにあの時、私は、外に出たかったのだ。


 逃げ出したかったのだ。


 逃げて、幸せになりたかったのだ。


 それを否定してしまったら、この異界で得たもの全てを否定してしまう。


 異界で救われた私の全部を。


 影踏み鬼のアヤシを思い出す。副葬品のアヤシを思い出す。


 いいことも悪いことも、悲しみも喜びも、全て合わせて、カタチは作られる。


「認めなきゃ、お前たちを救えないます」


 しっかりと、彼らに届くように言う。


 彼らは私を見ていた。


 私の声を聞いていた。


 でも近づいてこない。


 どうしても、一歩が踏み出せない。


「……怖いますか?」


 ざわりと彼らが震える。


「……私も怖います」


 すごく怖い。


 逃げ出したい。


 足が震える。


 ……でも、逃げない。


 ちゃんとここに立って、彼らを見ないといけないから。


「だから、私が認めるます」


 彼らに向かって、私はまっすぐに宣言する。


「私が……お前たちの死を認めるます」


 赤ん坊たちは私を見ていた。


 私も彼らをじっと見続けた。


 ――やがて一人が、救いを求めて、おそるおそる一歩だけ足を踏み出した。


 私は、大きく両腕を広げる。


「……ほら、おいで」





 停止した空間を物事主ものことぬしが解除し、再び時は動き出す。


 その途端、緩慢な動作だったアヤシはとてつもない速さで動き出し、絵巻屋は己のすべてを絞りつくす勢いでそれを受け止めた。


「あ、ぐ……」


 だけどこれだけじゃだめだ。門へと押し込まないと。


 絵巻屋は歯を食いしばると、手にした筆を己の中へと


 彼の手から筆が消え、その代わりに手から無数の墨の糸が伸びる。


 あの日、師匠がやったことだ。


 皆を守るために、最後の力を振り絞って師匠が行った行為。


 糸を握り込み、力づくでそれを振り上げる。


 もはや、己こそが墨であり、己こそが絵筆。


 異界を構成する墨たちを無理やり引きずり出し、巻き上がらせ、己の一部とする。


 それを為す絵巻屋の服もまた生きているかのように浮き上がり、一気にアヤシに襲い掛かった。


 墨がアヤシに巻き付き、拘束する。


 すさまじい叫び声があたりにこだまする。


 一歩踏み出す。


 拘束に引きずられ、アヤシが少しずつ異界の門へと近づいていく。


 一歩踏み出す。


 自分と墨との境界が擦り切れて、薄れて、己の輪郭を徐々に溶かしていく。


 一歩踏み出す。


 異界の門では物事主が待っている。


 こいつを向こう側に押し出しさえすれば、こちらの勝ちだ。


 一歩踏み出す。


 握ったこぶしにさらに力を籠める。


 その時、絵巻屋の右足がまるで粘土のようにぐにゃりと曲がった。


「絵巻屋!」


 物事主の焦るような声を遠くに聞きながら、絵巻屋は床へと倒れる。


 アヤシの拘束が解け、門から遠ざかる。


 なんとか立ち上がろうと床に爪を立てるも、どうしても起き上がれない。


 やがて腕にも力が籠められなくなり、絵巻屋は倒れ伏す。


 ごぼりと逆流してきた墨が口から吐き出される。


 視界がかすんでいく。


 アヤシがこの部屋から出ようと前に進んでいく。


 ……ここまでか。


 こうやって身を賭して皆を守ることすらできないなんて、俺は本当に情けない『絵巻屋』だ。


 もはや自嘲する気力もなく、絵巻屋はぼんやりとアヤシの行く先を見る。


 ――その時、アヤシの動きが突然止まった。


「……?」


 何が起きたのかわからず、周囲の役人たちも立ち止まっている。


 ぶよぶよの体から無数に伸びていた腕が消えていく。


 異形そのものだったその形が、徐々に人型へと近づいていく。


 呆気にとられているうちに、しゅるしゅるとその大きさがしぼんでいき――最後に残された球体がパチンと爆ぜた。


 内側から現れたのは、小さな黒色を抱いた写見だった。


 細いその腕には重いだろうに、決して落とさないようしっかりとそれを抱きしめている。


「……寂しかったますね」


 ぎゅうっと抱きしめる。まるで体温を分け与えようとしているように。


「寂しくて寒くて怖かったますね」


 落ち着かせるよう背中を何度もさすり、愛おしそうにそれに話しかける。


「私も、寂しかったます」


 ぽつりと言う。だけどその顔は穏やかなものだった。


「でも、もう大丈夫ますよ」


 頬を寄せて、優しく囁く。


「もう大丈夫。私がいるます」


 黒色が何かを掴もうとしているように手を動かす。


 写見はそれを、もう一度強く抱きしめた。


「ここは、優しい場所ますよ」


 ……ひゅうっと息を吸い込む音がした。


 初めての呼吸だ。不思議とそうわかった。


 吸い込んだ息が勢いよく吐き出され、大きな産声へと変わる。


 泣いている。


 手足を暴れさせて、世界を全身で感じながら、黒色のそれは泣きじゃくっている。


 写見は落とさないように膝をつき、その背中をぽんぽんと叩いた。


 泣き声がまた大きくなる。


「そうます、うーんと泣くといいます」


 だんだん輪郭がはっきりしてきたそれを、写見は自分の膝の上にごろんと寝かせた。


「泣いて泣いて泣いて、最後に笑えばいいますっ」


 それに向かって笑顔を作るように、ぐにっと軽く自分の頬をつねる。


 泣き声がさらに大きくなった。


「お前の名前は、今日から『なきわらい』ますっ」


 その瞬間、アヤシははっきりと赤ん坊の姿を取る。


 閉じていく絵巻屋の意識の中――その時の写見は、確かに笑っているように見えた。

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