第57話 おなかのなか
翌朝、目を覚ました私の体は少し重かった。
でも昨日よりはマシだ。ちょっとおなかはぐるぐるするけれど、我慢できる。
私がお腹に手を当てながら起き上がると、障子がすっと開いた。
しかめっつらの絵巻屋だ。
だけど、なんだか今日はいつも以上に顔がしかめられている気がして、私はびくっと肩を震わせた。
「起きましたか。今日は――」
絵巻屋は私に声をかけて、一度言葉を切った。
おなかに置いた私の手をちらりと見て眉を寄せる。
「っ……大丈夫ます。それより仕事したいます」
気分の悪さに気づかれないよう私は立ち上がる。絵巻屋は少しだけ黙った後に私に背を向けた。
「わかりました。用意をなさい」
着替えをして絵巻屋のところに行くと、絵巻屋は無言で草履を履いていた。
すぐ近くに化身も浮いていたが、何も会話していない。
それが居心地が悪くて、私も慌てて履物に足を入れる。
「関所に行きますよ」
私に背を向けたままぽつりと絵巻屋が言う。
「一度、アナタを連れて門を確認しにいきます。アナタが聞いているその声……おそらくその声がこの一件に関わっています」
そのまま歩き出してしまう絵巻屋を、慌てて追いかける。
まるで、できるだけ私と話をしたくないかのようだ。
……もしかして嫌われてしまったのだろうか。
私が神様になりたくないと駄々をこねているのが気に入らないのかもしれない。
迷う権利なんて私にはないかもしれないのに。
生前、見ていただけだったことへの罰なのかもしれないのに。
すぐそばについてきている化身が私のことをちらちら見ているのには気づいていたが、そちらを見ることもできなかった。
もしそちらを向いてしまって、化身が私のことを拒絶するような目をしていたら、耐えられなくなりそうだったから。
前を歩く絵巻屋を必死で追いかける。
消えかけている絵巻屋の顔を思う。
「絵巻屋」
思わず名前を呼んでしまう。
失いたくない。嫌われたくない。消えてほしくない。
そんな思いがぐちゃぐちゃになって、なんとか私は彼に声をかけた。
「絵巻屋は異界に必要な人ます」
だけど彼は振り向かない。
いかないで。
その一言がどうしても言えなかった。
関所についた私たちは、ほとんど無言のまま奥へと進んでいった。
いくつも廊下と扉を通り過ぎ、階段をいくつも降りてさらに奥。
最後に大きな扉を開けると、そこにはとてつもなく巨大な門がある部屋が広がっていた。
「門……」
大人が五人以上縦に並んでもまだ足りないほど大きな門。
この向こう側からアヤシが迫ってきているのか。
私は隣の絵巻屋をちらりと見る。
「容易には開きませんよ。開けるためには何重にもかかった鍵を解除するか……物事主様のように権限を持った方に開けてもらうしかありません」
私の顔を見ないまま絵巻屋は答える。
「近くに行きますよ」
そう言いながらすでに絵巻屋は歩き始めていた。
私はつまずきそうになりながら、それを追いかける。
門のすぐそばには道行がいた。
「妙……!」
彼は振り返り、絵巻屋に歩み寄ろうとする。
しかし自分を見てすらいない絵巻屋の顔を目にして、持ち上げかけていた手を諦めたように下ろした。
道行のその顔を見ると、悲しさと苦しさと悔しさがぐっと流れ込んできて、私は思わずおなかを押さえる。
ぐるぐるする。気分が悪い。
少し離れた場所では、絵巻屋が関所の人間と話している。
彼が、すごく遠く離れている気がしてしまう。
いかないでほしい。でもとめられない。
苦しい。ひくっと息を吸い込む。
私はおなかに手を当てながら、遥か頭上までそびえたつ門を見上げた。
……いっそ泣けたのなら、こんな気持ちも吐き出せたのだろうか。
そう思った瞬間――ゴンッと何かが開く音が、私の内側から響いた。
「写見ちゃん?」
貫くようなその衝撃にがくんと膝をつく。
近くにいた道行の声が聞こえる。それを聞いている余裕もない。
まるでおなかを内側からぶちぶちと引き裂かれるような痛みが走り、私は固い床に倒れて丸まった。
脂汗がだらだらと垂れて、口を開けて必死に息をしようとする。
「写見ちゃん、おい、写見ちゃん!!」
道行が肩を揺さぶっている。
私は必死で声を出した。
「お、なか」
泣き声が響いてくる。おなかの中から聞こえてくる。
なきたかった なきたかった
なきたかった なきたかった なきたかった なきたかったなきたかった なきたかった なきたかったなきたかったなきたかったなきたかった
誰かが私の内側を暴れまわって、食い荒らしている。
ごりごりと私の中をすりつぶして混ざってこようとしている。
「おなかのなか、だ、れか」
空気を求めて、のけぞって大きく口を開ける。
絵巻屋が切羽詰まった声で叫ぶのが聞こえた。
「その子を門から離せ!」
ごぼ、と何かねばつくものが泡立つような音がして、それは私の口から溢れてきた。
黒色。
ゼリー状の。
あの、アヤシだ。
アヤシはあっという間に膨れ上がり、私の体をからめとって宙に吊り下げる。
世界がみしっと揺れた気がした。
背後でぎぎぎっと門がこじ開けられる音がする。
そこから入ってきた黒色がさらに私の体に巻き付き、顔を覆った。
私の顔が、どろりと崩れる感覚がした。
「お嬢さん!」
焦った声が聞こえる。
化身の。
だれかの。
ぐぢゅりと黒色が私の顔をえぐり取る。
「写見ッ!!」
なまえ。えまきやがよんでる。
たいせつななまえ。
もらった。
だれのなまえ?
……あれ?
あれ、わたし、だれなんだっけ。
わたしは。
わたし、
だらりと、体から完全に力が抜ける。
思考はぐちゃぐちゃにかき混ぜられて、鳴り響く悲鳴の中に溶けていく。
かろうじて形を残していた口が勝手に開いて、誰かの声を吐き出しはじめる。
「な きた かった なき たかっ た 」
たくさんの声。
重なって、絡まって、濁りきったたくさんの声。
「う ま れ たか った」
とぎれとぎれの声が喉から出る。
内側で叫びまわる声たちがさらに激しくなって、周囲の黒色がぼこぼこと泡立つ。
「水子か……!」
焦ったような誰かの声が最後に聞こえて、『私』は完全に彼らの中に飲み込まれた。
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