第56話 決めたこと

 それ以上の情報を得られないまま、絵巻屋たちは一旦店へと帰ってきていた。


 徐々に更けていく夜を縁側から眺めながら、化身はぼんやりと『絵巻屋』の友人の言葉を思い返す。


 俺が名前を呼ばない。その意味をあの男は知っているのだろう。


 名前を呼ばないとは、彼自身という存在を認めないこと。


 名前を呼ばないとは、彼を『絵巻屋』としてしか見ないということ。


 名前を呼ばないとは、彼の存在を異界から剥奪するということ。


 俺はそういうモノ。『絵巻屋』を『絵巻屋』として存在させるための呪い。


 それ以上にはなれない。それ以外にはなれない。


「分かっちゃいるんだけどネェ」


 俯き、布の下でくくっと笑う。


 その時、背後から小さな足音が近づいてきた。


「……化身?」


 宙に浮かんだまま振り返る。


 絵巻屋が弟子として選んだ少女――お嬢さんが気づかわしげな目を俺に向けてきていた。


「お嬢さん、どうしたんダイ?」


 布の上の顔をふにゃっと笑みの形にして尋ねる。


 するとお嬢さんは、じっと俺を見て、それから俺の顔に手を伸ばしてきた。


「どこか痛いのか?」


 お嬢さんの手が布に触れる。


 俺は言葉を失った後、小さく笑った。


「参ったネェ、お嬢さんには敵わねぇヤ」


 幸いにもその真意はお嬢さんには伝わらなかったようだった。


 相変わらず心配そうな顔をするお嬢さんを、俺は見下ろす。


 化身をその身に宿した時点で『絵巻屋』としての契約はなされる。


 この子もいずれは――


「化身?」


「……何でもないヨォ、お嬢さん」


 ちょっと下に降りて、彼女の頭を優しく撫でる。


 俺はきっと、彼女の名前も呼ぶことはない。


「……」


 背後で再び、畳を踏む音が聞こえて振り向く。


 俺たちのすぐ近くに、仏頂面の『絵巻屋』が腰かけようとしていた。


「絵巻屋」


 お嬢さんが立ち上がり、何かを言いかける。


 しかし絵巻屋は手のひらを向けてそれを制した。


「大丈夫です」


「っ……」


「気にしないように」


「……はいます」


 頑ななその言葉に、お嬢さんはそれ以上何も言えなかったようだった。


 お嬢さんは口をつぐみ、絵巻屋と向かい合う位置に腰かける。


 絵巻屋はしばらく沈黙した後、そんな彼女に声をかけた。


「写見」


「はいます」


「アナタ、たしか声が聞こえるのでしたね」


 びくりとお嬢さんの肩が震える。


 今朝言っていたことだろう。


 泣けなかった、泣けなかったと。


 誰かが泣いているのだと。


「それは、アナタの記憶に……」


 絵巻屋はそこまで言いかけ、唇を閉じた。


 さすがに無遠慮だと思ったのだろう。気が利かないこの男でも、それぐらいはわかる。


 でも今は知らなければいけない。


 彼女が見ているものを。彼女が聞いてしまっている声を。


 この事件の手がかりになりうることだから。


「……きっと助けてほしいんだと思うます」


 お嬢さんはうつむき、膝の上で握られた拳にぎゅっと力が入る。


「さみしくて、こわくて、さむそうで」


 目がきつく閉じられ、何かを見てしまっている。


 俺たちには見えない、聞こえない、救いを求める声。


「手が、伸ばされてるます」


 お嬢さんは薄く目を開き、自分の手のひらを見る。


「私が神様だからますか……?」


 彼女の指は、可哀想なほど震えていた。


 こんな小さな子の手に、どれほどのものが縋りついているというのか。


「私が『見て』あげたら、助けてあげられるますか……?」


 俺たちは沈黙で返すしかなかった。


 絵巻屋が黙る以上、俺は何も言うべきではない。


 決めるのは俺というモノではない。今を生きる『絵巻屋』だ。


 絵巻屋は目を伏せ、唇を何度も震わせ、ずっと何かを言いよどんだ後、つとめて平静に言葉を紡いだ。


「いっそ本当に神様になってみるのもよいのではないでしょうか」


「……え?」


「アナタなら、きっと神様としてもちゃんとやっていけますよ」


 普段通りの態度を取り繕ってそう言う絵巻屋を、俺はただ見た。


 その選択肢を、俺は静観することしかできない。


 お嬢さんは声を震わせる。


「でも……私には全部のこと愛せないます」


 雲外鏡で垣間見てしまった彼女の生前。


「苦しくて、悲しくて、嫌だったます」


 直視しなくて済むのなら、直視させたくはなかった過去。


「あんな風に生きて、死んで、よかったことなんて何も……」


 呪いにも似た誓いによって封じられていなければ、彼女はきっと涙を流したのだろう。


 だけど、彼女の服にしずくが落ちることはない。


 荒れ狂う感情の波がせき止められて溺れそうになっているのが、外から見てもはっきりと分かった。


「私」


 絞り出すようにお嬢さんは言う。


「絵巻屋たちと一緒にいるの、好きます」


 目の前の絵巻屋が、うつむいたまま軽く目を見開いたのが見えた。


「背中追いかけるの、楽しいます」


 お嬢さんはうつむいている。絵巻屋の表情には気づいていない。


「ここを離れたくないます」


 途方に暮れたようにお嬢さんは言う。


「ここがいいます……」


 ……迷子だ。


 こんなに近くにいるのに、この子は迷子になってしまっている。


 絵巻屋は顔を上げ、そろそろと右手を持ち上げてお嬢さんの頭を撫でようとし――諦めた。


 そして、苦々しく顔を逸らしている。


 何を考えているのかは手に取るようにわかってしまった。


 俺は小さくため息をついて、お嬢さんの前にすいっと滑り込んだ。


「お嬢さん、ちょっと散歩に出ないカイ?」


「……散歩?」


「気晴らしダヨ。時には外の空気を吸うことも肝心サ」


 ホラホラ、と手を引いて、無理やり彼女を店から連れ出す。


 ちらりと振り返った絵巻屋は、何もできずに打ちひしがれていた。


 お嬢さんの小さな手を握ってふわふわと進んでいくと、提灯がいくつも出ている出店の通りへとたどり着いた。


 その中の一つから、ひょいっと男が顔を出す。


「おっ、写見ちゃん。こんな遅くにお出かけかい?」


「お散歩ます。気晴らします」


「そうかあ。迷子にならないように帰るんだよ」


 男はお嬢さんをわしゃわしゃと撫でる。


 お嬢さんがされるがままになっていると、今度は出店の店主が何かを手に外に出てきた。


「ああ、待ちなよ写見ちゃん」


「?」


「ほらこれ巻いて」


 店主はもこもこの襟巻をお嬢さんの首に巻き付ける。


「風邪ひいたら一大事だよ。ちゃんとあったかくしな」


 お嬢さんは目をぱちくりとさせた後、ぺこりと礼を言う。


 すると出店で酔っぱらっていた様子の女性が、お嬢さんの肩を捕まえた。


「あら、じゃあおでんでも食べていく? お姉さんおごっちゃう!」


「で、でもお金……」


「いいのよ、大根でいい?」


 無理やり座らされ、目の前に大根を置かれる。


「ありがとうございますます」


 礼儀正しくお嬢さんがそう言うと、モノたちは満足そうに笑いあった。


「あったかいます」


 ほかほかの大根を食べながら言うお嬢さんから少し離れた場所で、俺はそれを見ていた。


 一線を引く。


 俺は、彼らとは違うモノだから。


 おでんを食べ終わって戻ってきたお嬢さんの手は、さっきよりもずっと温かかった。


「みんな、優しいます」


 足取りも心なしか確かになって、俺たちは夜の街を進んでいく。


「異界のみんなに会えてよかった」


 眩しいほどまっすぐな目をお嬢さんは穏やかに細めていた。


「ここは、優しい場所ます」





 ぐにゃりと空気が歪み、店の雰囲気が変わる。


 絵巻屋は正座をしたまま、彼の到来を待っていた。


「やあ! こうしてちゃんと話すのは久しぶりだね、『絵巻屋』!」


 ぴょこんと何もない場所から現れた事は、笑顔で絵巻屋に手を振る。


 絵巻屋は深く彼に頭を下げた。


「……ご無沙汰しております。物事主ものことぬし様」


「ふふ、そんな風に呼ぶのは君ぐらいだよ。固いなぁ」


 よいしょっとぉ、と言いながら事は用意された座布団に腰かける。


「で? 奴らの心当たりがあるの?」


「……はい。写見が『泣きたかった』と泣く何かを見ているようです」


「ふぅん、あの子が」


 軽く言いながら事は体を傾ける。


「それが今回のアヤシの正体なのでしょうか」


「んー可能性はあるだろうね。あの子は『見る神』だから」


 ぴくりと絵巻屋の指が震える。


 そのまま沈黙する彼に、事は目を軽く細めた。


「なぁに? 言いたいことがあるなら言っておけばいいんじゃない?」


 絵巻屋は彼から目をそらし、何かを我慢するようにぐっと体を硬くした後、どうしようもなさそうに脱力した。


「あの子は神として生きなければならないのでしょうか。それとも私のように――」


 ぽつ、ぽつ、と、まるで迷子のように絵巻屋は言い、泣きそうなほど顔を歪めた。


「いっそ私が手を離せば、まだ人として」


「絵巻屋」


 温度のない声色で事は絵巻屋を遮る。


 絵巻屋は雷に打たれたかのように動きを止めた。


「わかっていたことだろう? それとも情がわいたのかい?」


 まるで子供を諭す親のように、正面から事は言葉を叩きつける。


「『絵巻屋』なんて、ほとんどみたいなものだ」


 喉の奥で呼吸が引っ掛かり、絵巻屋は小さくうめく。


 わかっている。わかっていた。


 わかっていて自分はこの道を選んだ。


「だからちょうどいいと思ったんだろう? 元々生贄の子を生贄にしても、罪悪感はわかないからね」


 はくはくと小さく唇を動かす。


 だけど何も言葉が吐き出されることはない。


 吐き出すべき言葉もない。


「僕としてもね。あまりに哀れだったから僕としては珍しく、本っ当に珍しく選択肢をあげたんだよ? 神様のところに行くか、それともこの世界に捧げられるかってね。ま、あの子がその神自身だったってことでその選択肢も消えたんだけど」


 膝の上に置いた手をぎゅっと握り締める。


 この皮膚の下にもう血は流れていない。


 この体をめぐるのは、もうだ。


「今更怖くなったの?」


 悪意なく、確認のように事は言う。


「周りの忠告を無視して墨を酷使し続けた報いでしょ。当然だ」


 体を震わせる絵巻屋に、ただ事は事実を宣告した。


「これは全部、君が決めたことだ」


 絵巻屋は顔を上げることはできなかった。


 助けを求めても、許しを求めても、事は何もしない。


 そういうモノだからだ。


「とにかくある程度回復したら動いてね。……この一件は続くよ」


 そう言い残し、事はひょいっと姿を消す。


 残されたのは、薄暗い部屋でうつむく『絵巻屋』だけだった。

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