第55話 呼ばれない名前

 駆け込んできたのは、貸本屋の店主だった。


「助けてくださいっ! 娘が、途糸がっ……!」


 ほとんど泣きそうになりながらやってきた店主に、ただごとではないと悟った私たちは、慌てて彼に続いて店を飛び出した。


 血相を変えて駆けていく私たちに、道行く人たちは振り返ってくる。


 空は曇っていて、今にも雨が降り出しそうだ。


 そんな街を駆け抜け、連れていかれたのは彼の営む貸本屋だった。


 店の奥にある部屋に急いで上がると、そこには布団に寝かせられた途糸の姿があった。


 しかし——彼女の顔の右半分は、黒く塗りつぶされてしまっている。


「っ……!」


 息をのむ私を置いて、絵巻屋は筆を抜き放ち、彼女の顔に絵を描く。


 私たちの記憶する途糸の顔だ。


 墨は途糸の顔に染み込み、ゆっくりと彼女の本来の顔が浮き出てくる。


 やがて途糸は、けほけほと咳をして、薄く目を開いた。


「ああっ、途糸、途糸ぉ……!」


 顔が戻ってきた彼女に、店主はすがりついて泣き始める。


 涙と鼻水で店主の顔面はもうどろどろだ。


「お、父さん? 絵巻屋さん? 私……どうかしていたんですか?」


「今さっきまで、アナタの顔が消えかけていたのです」


 重々しく絵巻屋が告げると、途糸は目を丸くして震え始めた。


「そんな……顔が消えるなんて、恐ろしいこと……」


「俺はもう、お前が死んじまうかと……」


 店主は大きくしゃくりあげる。


 途糸は自分のお腹に手を当てていた。


 彼女を安心させようとする声色で、絵巻屋は途糸に言う。


「今はもう大丈夫です。念のため、もうしばし安静にしてもらいますが」


 途糸は震えながらうなずき、自分にすがりつく父親の手に手を重ねた。


「絵巻屋さん。ありがとうございます、本当にっ……」


 あまりに異様な様子で私たちが走り込んだのを見ていたのだろう。


 店の前には不安そうな人だかりができていた。


 そんな騒ぎを聞きつけたのか、役人たちが慌てて関所のほうから走ってくるのが見えた。


「妙!」


 役人たちの中から道行が駆け寄ってくる。一瞬絵巻屋は顔をしかめたが、すぐに無表情に戻った。


 仕事をすることにしたのだ、となんとなく察する。


「ついに顔を奪うアヤシが出たんだな」


「……ええ。これからきっとまだ増えていきます」


 絵巻屋は険しい目で途糸のほうを見ている。


「くだんの門の向こうのアヤシが侵入を?」


「いや、それがまだ門の向こう側にいるみたいなんだ」


 道行は首を横に振る。


「門の向こう側からは相変わらず嫌な感じが伝わってきてる。だからまだあっちにいるはずなんだよ」


「ではこのアヤシの他にも厄介な輩が近づいているということ、ですか」


 苦々しく顔をゆがめ、絵巻屋は言う。


 焦り。苦しさ。責任。


 すごく、自分を追い詰めている。


 じっと見ると、そんな言葉が浮かんでくる。


 道行もそれに気づいたらしく、絵巻屋にそっと尋ねた。


「妙。……大丈夫か?」


 絵巻屋はそんな彼を見ようともしなかった。


「前回は七人やられました。今回こそ被害者を出さずに追い出してみせます」


 単調な声だった。


 絶対に気を許さないという声色。


 道行は言葉に詰まった後――何故か、化身に剣呑な目を向けた。


 化身はそんな彼をちらっと見て、距離をとる。


 そわそわと居心地が悪くなった私は、目をそらしたままの絵巻屋に近寄って裾をくいっと引っ張った。


「……前にもこういうアヤシが出たますか?」


 絵巻屋は一度こぶしを握り、自分を落ち着かせるように深く息を吐いた。


「先代が最後に封じたのも顔を奪うアヤシでした」


 目をどこかに向けたまま、絵巻屋は口を動かす。


「定義することも、消滅させることもできなかったんです」


 先代。


 前の絵巻屋――あのお姉さんのことか。


 あんなに強そうな人でも勝てなかったなんて。


 私は無意識のうちに体の前できゅっと指を絡ませた。


「あの人にできたのも、顔を奪うアヤシを異界の外にはじき出すことだけでした」


 絵巻屋はぐっと目を細める。


 その時の光景を、思い出しているのかもしれない。


 彼の目には後悔が強くにじんでいた。


 絵巻屋の顔が黒いもやで揺れ、私はあわてて彼の裾をぐっと引いた。


 ぴくっと少し驚いた顔で絵巻屋がこちらを見る。


 私がじっと彼の顔を見つめると、絵巻屋はちょっとだけ緊張を和らげたようだった。


「アヤシが彼女を襲ったのには理由があるはずです」


「……アヤシを惹く要素が彼女にあったってことカイ?」


 化身が控えめに聞き返す。


 キツネの嫁入りの一件のことだ。


 道行は化身を押しのけるように絵巻屋に尋ねた。


「以前も彼女にアヤシが近づいていたんだろ? その時は何に惹かれていたんだ?」


「ああ、それは――」


 絵巻屋が答えかけたその時、バタバタと慌ただしく店に入ってきた人物がいた。


 腕がいくつもあるその男性――途糸の夫の宵腕は、顔を真っ青にして店の奥にいる途糸へと駆け寄った。


「途糸!」


「宵腕さんっ」


 体を起こしていた途糸と宵腕が強く抱きしめあう。


「大変な時に一緒にいられなくてすまなかった……! もう起き上がっても大丈夫なのか?」


「ええ。絵巻屋さんがちゃんと治してくれたもの」


 花がほころぶように途糸は笑い、自分の腹をゆっくりと撫でた。


「この子も無事よ。ちゃんとさっき蹴ってくれたわ」


 じりっと頭の端が焦げるような感覚がして、誰かのざわめきが内側からこみあげてくる。


 泣きたかった。泣きたかった。


 急に訪れたその感覚に、耳をふさいでしまいたくなる。


 でもその声は私の奥底から響いてくる。


 ぐるぐるとおなかが気持ち悪くて、口を手で押さえた。


「……お嬢さン?」


「なんでもない、ます」


 体の芯が冷えていく感覚がする。


 私は口から手を離し、首を横に振った。


「ちょっと気分がわるいだけ、風邪とかじゃない、ます」


 そうやって拒絶すると、化身はそれ以上何も言えなくなったようで、私から離れていった。


「すぐにわからない以上、彼女を張るのがよいでしょうね」


「ああそうだな。また彼女が狙われる可能性がないわけじゃない」


 いつの間にか絵巻屋と道行は作戦を決めたようだった。


 私は気持ち悪さを飲み込み、二人に向き直った。


「おい。私は、何をすればいいますか」


 絵巻屋は私に視線を向け、口を開こうとした。


 しかしその直前――何かが割れるような音がして、周囲の温度がぐっと下がった。


「……っ!?」


「アヤシです! 構えて!」


 言い終わるか言い終わらないかというタイミングで、何もない空間から真っ黒なゼリーのような何かがあふれ出てきた。


 ゼリーはみるみるうちにぶよぶよとした四つ足の化け物になる。


 犬ぐらいの大きさをしたその化け物は、存在しないはずの目を私に向けた。


「っ!」


 ぞわっと背筋に寒気が走り、体が固まってしまう。


 正体がわからない思いが濁流のように流れ込んできて、思考が固まる。


 ほしい。ほしい。ほしい。


 ざらざら、ごうごう、と声が叩きつけられる。


 まるで色々な気持ちがぐちゃぐちゃにミキサーでかきまぜられたみたいだ。


 化け物が口らしき場所を開き、冷たい息を吐く。


 見てはいけないと思うのに、目を離せない。


 化け物が足を踏ん張り、私に向かって走り出そうとしている。


 視界の端で絵巻屋が墨を飛ばした。


 墨は化け物の体に絡みつき、その動きを止めようとする。


 しかし、ゼリーの化け物はずるっとその隙間を通り抜け、動けない私に口を開き――


「写見ッ!!」


 ――そんな私の体を抱えて後ろに飛び退った人物がいた。


「はぁーもう。やっと見つけたよ」


 一瞬何が起きたのかわからずぼんやりとした後、腰に細い腕が回されて誰かに抱えられていることに気が付いた。


 やけに緊張感がない喋り方をする彼は、私をすとんと地面に下ろして、私と化け物の間に立つ。


 場違いな洋装に身を包んだ少年。


「事……?」


「ああまったく、厄介なことだね」


 事はまるで拗ねた子供のようにぷくっと頬を膨らませ、化け物を指さした。


「ここは僕の領域なんだけど? 勝手に入ってこないでくれる?」


 見た目だけ見れば、秘密基地に勝手に入られた子供みたいな軽い怒り方だ。


 だけどなんとなくいつもとは違う雰囲気もある。


 多分、すごく真剣なのだ。


 化け物はそんな事の言葉に答えずに咆哮する。


「聞く耳持たずかあ」


 そのまま突進してきた化け物をひらりとよけ、もののついでのように私の体も突き飛ばす。


 私が今さっきまでいた場所を、化け物が通り過ぎた。


 軽い動きで着地した事は、驚愕で固まっている絵巻屋にぷんぷんと怒りだした。


「驚いてる暇があるならさっさとなんとかしてよね。僕だと力加減がうまくいかなくて、世界ごとバランス崩しちゃうんだからー!」


 慌てた様子で絵巻屋は筆を構える。


 事は片手を持ち上げて目を細めた。


「一時的に穴を開けて閉じちゃうから、こっちに追い込んで」


 化け物は再び私たちにとびかかろうと様子をうかがっている。


 事は、私と化け物の間に立ちふさがった。


「さっきみたいに出し惜しみしないでよ?」


「分かっています」


 静かに絵巻屋が答える。


 化け物は絵巻屋が邪魔をしようとしていることに気づいたのか、今度は絵巻屋に向かって飛び掛かった。


 絵巻屋は勢いよく多量の墨を描き出し、今度は膜で包み込むようにしてアヤシを受け止める。


「ぐっ……」


 苦しそうな声が聞こえてくる。


 化け物の勢いを受け止めている墨が震えている。


 事はそんな二人の近くに跳ぶと、何もない空間を人差し指で一閃した。


 すると、まるで切り裂かれたかのように空中に切れ目が入る。


 事は化け物を足止めしている絵巻屋に叫んだ。


「右だよ!」


 多量の墨がまるで化け物をはたくかのように動き、切れ目へと化け物を弾き込んだ。


 すかさず、事もそのあとを追って切れ目に飛び込み、瞬きをする間もなくその亀裂は姿を消した。


 残されたのは、沈黙する私たちと、肩で息をする絵巻屋だけ。


 気付くと、頭の奥から響いていたあの声が引いている。


 顔を奪うアヤシはこれで追い払えたのだろうか。


 しかし絵巻屋は首を横に振った。


「まだ、終わっていません。あれはきっと、アヤシのほんの一部分……」


 言い終わらないうちに、げほ、ごほっ、と絵巻屋は咳をする。


 絵巻屋はそれを手で受け止める。黒色の液体が手首をつたい、彼の足元にぽたぽたと落ちた。


「絵巻屋……?」


 おそるおそる絵巻屋に近付く。


 すごく顔色が悪い。


 喉がヒューヒューと苦しそうな音を立てている。


「妙!」


 思わずといった様子で道行が駆け寄り、絵巻屋の肩を掴んだ。


 その顔は泣きそうなほど歪んでいる。


「もうやめろ妙! お前がここまでするほど――」


「放っておいてくれ!」


 絵巻屋は勢いよく道行の腕を振り払う。


 いつもなら考えられないほどの大声だった。


 道行は振り払われたままの姿勢で固まっている。絵巻屋は彼に背を向けた。


「帰りますよ。もうここにはアヤシは出ないでしょう」


 少しふらつきながら絵巻屋は店から出ていってしまう。


「絵巻屋……」


 痛ましいものを見るかのような声で、化身がつぶやく。


 すると、道行は険しい目で化身を睨みつけた。


「アンタはそうやって、アイツの名前を呼ばないんだな」

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