第十一章 あの子の泣く声

第54話 彼らの寄る辺

 自分の内側から泣き声がする。


 ひとつひとつは微かで、だけどたくさんが合わさって、誰かがずっと泣いている。


 泣けなかった。


 泣けなかったよ。


 悲しい。さみしい。


 目は開かない。暗くて寒くて、恐ろしい空間だ。


 でも、私に伸ばされてくる手は見える。


 怖いよ。


 さみしいよ。


 ねえ。


 かみさま。かみさま。


 私たちは、どこに行けばいいの。





 いつも通り目が覚めて、ごはんを食べて、着替えて、仕事を始めて、それでも頭はぼーっとしたままだった。


 つい昨日たどりついてしまった現実が、首の後ろあたりでずっとざわざわとしている。


 悲しい。怖い。いやだ。さみしい。


 のどのあたりでそんな言葉がうずまくたび、耳の奥でざわざわと誰かがささやく声がする。


 机を拭いていた手をぴたりと止める。


 ざわめきが大きくなる。


 泣きたかった。泣きたかったよ。


 私のもののような、私ではないような泣きじゃくる声が、ごうごうと大きくなっていく。


 夢の中にもいた。今も、私の内側にいる。


 ふきんを持つ指先にぐっと力を籠める。


 目を閉じて、首をぶんぶんと横に振る。


 誰。


 私の中で泣いているのは、誰。


「お嬢さん、その、大丈夫カイ……?」


 いつの間にか近くにやってきていた化身が、後ろから声をかけてくる。


 私は目を薄く開けて、小さく返事をした。


「……大丈夫ます」


 消えそうな声で私は拒絶する。


 だけど、化身は私の肩にそっと手を伸ばしてきた。


「で、でモ……」


「大丈夫ますっ!」


 ほとんど叫ぶように言う。


 自分から出たとは思えないほど大きな声が出て、びっくりして固まってしまった。


 二人で硬直していると、文机のほうから静かな声が飛んできた。


「写見」


 心だけは泣きそうになりながら、絵巻屋を振り返る。


 絵巻屋はすっと立ち上がったところだった。


「それでは仕事になりません。こちらにおいでなさい」


 そのまま奥へと歩いていってしまう絵巻屋を、私は目をさまよわせた後、追いかける。


 化身はそんな私を見送りながら台所へと向かっていった。


 絵巻屋はちゃぶ台の座布団に座り、私もその向かいに腰掛ける。


 ほどなくして、化身がお茶を淹れて持ってきてくれた。


「はい、どうゾ」


 ぺこりと頭を下げながら、ちゃぶ台に置かれた湯飲みを持ち上げる。


 ぐぐっとその中身を傾けると、熱がのどを通り抜けて、体にしみこんでいく感覚があった。


「あったかいます……」


 ほっと息を吐きだす。のどにあったぐるぐるが、ちょっとだけ和らいだ気がした。


 私は湯飲みを持ったままうつむく。


 いくら和らいでも、どうしてもさみしさは胸の中にある。


 耳の奥にも、あの声が渦巻き続けている。


 私はきゅっと唇に力を込めた後、小さく言葉を発した。


「……泣き声が、聞こえるます」


 二人は何も言わなかった。


 ただ、私が話すのを黙って聞いてくれていた。


「泣けなかったって、ずっと泣いてるます」


 私はぽつりぽつりと、確かめるように声に出す。


 耳の奥のざわめきが大きくなった気がした。


 ここにいる。


 私たちはここにいるよ、と。


「すごく、さみしくて、怖います」


 おなかの真ん中がきゅうっと痛む。


 怖い。怖い。怖い。


 私のものなのに、私のものではない恐怖も混じっていて、すごく怖い。


「これは、誰ますか……?」


 まるで私の中にもっとたくさんのものがいるみたいで、ぐるぐると気持ち悪い。


 せっかくお茶で温めた体が冷えていく。


 小さく震える私の肩に、化身がそっと羽織をかけてくれる。


 寒さがちょっとだけマシになった気がした。


「……その声はほかに何と?」


 静かに絵巻屋に尋ねられ、おへその下あたりを押さえながら私は答える。


「神様を、呼んでるます」


 かみさま、かみさま。


 見えない何かが、私の内側から手を伸ばしている。


 私に、見てもらいたがっている。


「私は……」


 ぞわぞわと這い出てきそうな何かを押し込め、なんとか言葉を吐き出す。


「生贄として死ぬまで、私は、見てただけだったます」


 その事実を、改めて言葉にする。


 鏡が。祈りが。お供え物が。死んだものの目が。


 まぶたの裏にありありと浮かんでくる。


「神様は、見ないといけないますか」


 沈黙。


 もしかしたら、何を答えるのか迷ったのかもしれない。


 絵巻屋は口を開き、ゆっくりと話し始めた。


「……以前にも言いましたが、神とは信仰されるものです」


 そういえばお祭りのときにそんなことを言っていたような気がする。


 ちゃぶ台の上に置いた湯飲みで指を温めながら思い出す。


「信じられ、求められ、望まれる。……愛されていると言い換えてもいいかもしれません」


 愛される。


 ……なんだか、実感のない言葉だ。


 ちらりと見ると、絵巻屋はちょっと視線を下向かせていた。


「アナタの場合は……言い方は悪いかもしれませんが、カルトの信者からの信仰はあるはずです」


「……信仰」


「アナタを神としたカルトの誰もが、それが真であれ偽であれ、アナタを『見る神』として望んだ。それが、信仰です」


 ゆっくりと、その言葉を飲み込む。


 皆が私を『見る神』として望んだ。


 彼らが私に向けていた視線を思い出し、唇を震わせる。


「誰かが望んだ神様にしかなれないますか」


「……アナタが神になるとしたら、彼らの信仰を寄る辺にするほかないでしょう」


 信仰。彼らの、私を望んだ彼らの、私にひどいことをした彼らの信仰。


 そのために、私は『見る神』に。


「私、」


 口を開きかけ、一度言葉を切って何度か呼吸をした後、やっとのことで続きを口にする。


「写見って名前、すごく好きます」


 絵巻屋がつけてくれた名前。


 カタチを見て、モノを写し取るもの。


 この異界で、見ることを望まれた名前。


 私はまぶたをぎゅっと閉じた。


「でも、見たくないものもあるます……」


 目を閉じると、やっぱり何かが手を伸ばしてきているような気がする。


 見えないのに。見ないようにしているのに。


「写見」


 名前を呼ばれ、まぶたを開く。


 絵巻屋がまっすぐに私の目を見ていた。


「今はまだ、私たちだけを見ておきなさい」


 何度もまばたきをしながら絵巻屋の顔を見返す。


 すぐ隣ではへにゃっと化身も笑っている。


「落ち着いて心を決めてから、他を見ればよろしい」


 その言葉はすとんと私の中に落ちた。


 そうしていたい。


 強く願う。


 だけど。


「絵巻屋」


 彼の顔を見ながら、私は言う。


 何度も見えなくなりそうだった、絵巻屋の顔を見る。


 また、顔がぶれている気がした。


「死んじゃったらいやます……」


 迷子みたいな声で告げる。


 絵巻屋は意表を突かれた顔をしたが、それ以上何も聞いてこずに小さく笑った。


「死にませんよ。顔を奪うアヤシをなんとかしてこの危機を乗り切るまでは、死んでも死に切れません」


 絵巻屋はきっぱりと言い切る。


 すると、不安定に見えていた彼の顔がはっきりと視界に映った。


 私はほっと胸をなでおろし、だけど、はたと気づく。


 ――でも、この危機を乗り切ったら?


 それを尋ね返す寸前、店のほうから慌てた男の人の声が聞こえてきた。


「絵巻屋さん大変です!」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る