第53話 代償

 ふらつき、鏡から離れ、膝から崩れ落ちる。


 頭が痛い。


 見ないようにしていた全てが、見えてしまった全てが、頭の中をぐちゃぐちゃにかき混ぜている。


 怖い。寒い。苦しい。


 両腕で自分の体を抱きしめ、目を見開いて震える。


 浅く息をする。恐怖と悲しみが喉の奥からこみあげてくる。


 だけど――涙は一粒もこぼれない。

 

「なんで」


 床を見たまま、呆然と呟く。


「なんで、泣けないます」


「其方は其方という神に『顔』を差し出したのだ。特に強い思い入れがあった『笑顔』と『涙』をな」


 静かに龍神が告げる。


 差し出した。そうだ。私はあの時『かみさま』に持っていって、って。


 なんとかしゃくりあげられないか、口を開けて息をする。


 だけど、涙を流すときのように鼻の奥は痛くならないし、額から脂汗が床にぽたぽたと落ちるばかりだ。


 いっそ、いっそ泣いてしまえば、楽になるかもしれないのに。


「どうやったら、私、泣けるます」


 怖いのも、苦しいのも、嫌なことも、寂しいことも。


 全部全部喉の奥でせき止められてしまって、涙の形になってくれない。


 静かに歩み寄ってくる龍神の足が視界の端に入った。


「其方の顔は、其方がその記憶を認めない限り、戻ってこない」


「みとめる……?」


 顔を上げる。


 龍神が、優しいおじいさんではない怖い神様が、私を見下ろしている。


「取り戻したいなら認めることだ。其方の生を。其方の死を。それに至る全てのことを」


 ゆっくりと、厳しく、龍神は言う。


「そうして全てを愛せたならば、お前は全てを取り戻し、神となる資格を得るだろう」


 私はどんな顔をすればいいのかわからずに、呆然と呟く。


「かみさま」


 神様。神様。


 あんなにつらかったもの。あんなに苦しかったもの。


「そんなものに、なりたくないます……!」


「其方のために捧げられた者たちを無駄にするつもりか?」


 びくっと肩が震える。


 お供え物になった人たちの目を、おにいさんの目を思い出す。


 彼らは私のために死んだ。私という神様のために。


「神となることを選べば、其方を害した輩を祟り殺す神にもなれるだろう。それとも其方に向かって祈る信者に応える神になるか。――選ぶのは其方だ」


 じっと龍神は私を見下ろす。その瞳がキュッと狭まった。


「神とは望まれ、捧げられ、与えるモノ。……其方は、どんな神になる?」


 その言葉は、宣告のように大きく響いた。


 ひんやりとした空気が龍神から伝わってくる。震えが止まらない。


「わたし、は」


 なんとか唇を動かして、答えようとする。


 でもわからない。


 私は、どうすれば。


 すると、龍神はふっと雰囲気を和らげ、ただのおじいさんのような顔になって、私の前に膝をついた。


「可愛い子。もし神になる決心がついたのなら、いつでも来るといい」


 龍神の冷たい手が頬に触れ、優しく撫でられる。


「私が立会人になろう。きっと君はいい神様になれる」





 龍神と別れ、関所を出る。


 日はすでにすっかり暮れて、関所の周りに人影はない。


 立ち止まる。


 後ろを歩いてきていた絵巻屋と化身も足を止める音がした。


「おにいさんに」


 俯いて、振り向かないまま切り出す。


「逃げろって、言われたます」


 手のひらを見る。


「逃げて幸せになれって、言われたます」


 温度を失っていくおにいさんの手。


 握っていた感触がまだはっきり残っている。


 でも、おにいさんは私のために死んだ。


 神様になれば彼にとって何かできることがあるかもしれない。


 でも、神様なんて、私には。


「私は、どうすればいいます……」


 手をぎゅっと握り込む。


 化身に整えてもらった爪が、ぎりっと手の平に食い込む。


「なんで泣けないます。なんで笑えないます」


 痛いのに。怖いのに。悲しいのに。苦しいのに。


 いっそ笑ってしまいたいのに。


 笑って、怖くて苦しいものを全部隠したいのに。


「どうして、苦しい顔ばっかり戻ってくるます……!」


 体を縮こまらせて、地面に叫ぶ。


 誰にも届かない。誰も答えてくれない。


 私の体が震えているだけだ。


「苦しいます……」


 ぎゅうっと胸を押さえる。


 私の荒い息が、夜に響いている。


 ざっ、と後ろで足音が聞こえた。


「写見」


 名前を呼ばれ、振り返る。


 絵巻屋がしゃがみこみ、私に両腕を広げていた。


「おいでなさい」


 私は顔を歪めてすぐに近づこうとして、ちょっと躊躇って手を引く。


 怖い。


 足が震えている。


 私はうろうろと視線をさまよわせる。


 だけど、絵巻屋は静かに私を待っていた。


「っ……!」


 歪められるだけ顔を歪め、私は絵巻屋の腕の中に飛び込んだ。


 首に手を回して、ぎゅうぎゅうと抱きしめる。


 だけど私の短い腕では、絵巻屋にしっかりと抱きつけなかった。


「腕、足りないます……」


 絵巻屋の胸元に、涙の出ない顔を押し付ける。


「もっとぎゅっとしたいます……」


 震えながらそう言うと、絵巻屋は広げていた腕を戻し、軽く私を抱きしめた。


「それなら成長すればいいでしょう」


 絵巻屋の手が私の頭を優しく撫でる。


「もう少し背が伸びれば、きっと腕も足りますよ」

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