第27話 一緒に遊ぼう

 私の視界がぐらりと揺れる。


 ぎゅんっと体が柔らかくなって、ねじれて、どこかに吸い込まれていき――ぱちりと目を開くと、そこには私の体を受け止める絵巻屋の腕の中だった。


 絵巻屋は私が倒れないように支えながら、ぴたりと構えた筆を前方の存在へと向けている。


「お嬢さん!」


 すごい勢いで飛んできた化身が、私の体を絵巻屋から受け取る。


 同時に絵巻屋は、アヤシに向かって駆け出した。


「ほら、これヲ……!」


 うまく体に力が入らない私を抱え、化身は煙が出ている香を私に近付けた。


 絵巻屋がいつも吸っているあの霧タバコと同じ匂いが体にまとわりつき、だんだん体の感覚が戻ってくる。


 私は化身に体重を預け、縮こまった。


 死ぬところだった。


 遅れて来た恐怖で、体が細かく震えはじめる。


「ゴメンネ、怖かったよネ。気づくのが遅れて本当にゴメンネ」


 化身はそんな私を抱き込み、何度も背中をさすった。


 私を包む腕の外側では、バタバタといくつも大人の足音がしている。


 たぶん、あのアヤシを追いかけているのだ。


 化身は私を抱きかかえたまま移動し、壁際に私を下ろした。


「もう大丈夫だからネ。すぐ絵巻屋たちガ――」


「くそ、見失った……!」


 絵巻屋の切羽詰まった声が響いてくる。


「……化身! アナタも捜索に加わってください!」


 化身はそちらを見た後、私を見て、慌ててそのあたりにいた男性を一人捕まえた。道行と同じ色の服を着ているから、きっとお役人さんだ。


「ちょっとそこノ! 俺はココ離れるから、お嬢さんを頼むヨ!」


「え、あ、はい!」


 声をかけられたお役人さんが私のそばに膝をつく。私はぐっと目を閉じて息を吐き出した。


 大丈夫。生きてる。私は大丈夫。


 でも……あのアヤシはどこに?


 その時、すぐ近くの路地から囁き声が聞こえた。


 ざわざわっ。


 振り返る。日がどんどん傾いていく路地は暗い。


 囁き声の主を見るために目を凝らす。


 ――そこには一人の少年が立っていた。


「!」


 塗りつぶされているかのように顔はわからない。だけどとても小さな少年だということはわかった。


 彼は、騒がしく走り回る大人たちを呆然と見ていた。


 暗がりに浮かび上がるのは、真っ白で細い手足だ。まるで、あの時の私と同じような。


 大人たちは誰も彼を見ていない。誰も、彼を見つけられない。


 彼はしばらく立ち止まっていたが、こちらに背を向けて、とぼとぼと去っていこうとした。


 寂しそうだ。悲しそうだ。


 相手にしてもらえないその気持ちは、痛いほどわかった。


 私は立ち上がり、お役人さんの制止も無視して、そちらに走り出した。


「……待つます!」


 少年はゆっくり振り返る。顔は見えないけれど、目を見開いている気がした。


「お前、みんなと遊びたかっただけだな」


 確認するように言う。少年は何も答えなかったけれど、私にはそれが本当だと分かっていた。


 だってきっと、彼は私と同じだったから。


「私が一緒に遊んでやるます」


 ふんすと胸を張る。ざわざわと彼が何かを言っている。


 私はそれを押し切るように、力強く言った。


「遊びたいのに遊べないのは悲しいます!」


 彼は驚いたような様子を見せたあと、私に大きくうなずいた。


 私はなぜか、もう彼が恐ろしくはなかった。


 唇を尖らせて私はずいっと彼に歩み寄る。


「でも今度は私が鬼ます」


 彼は首を傾げた。私はびしっと彼を指さす。


「お前は私を捕まえたます。だったら私が鬼の番ます」


 ふふんっと鼻を鳴らしてやると、彼は納得した様子でこくこくうなずいた。


「十数えたら追いかけるます。そのすきに逃げるがいいます」


 両手を出して十本指を立てる。


「いーち、にーぃ、さーん、よーん……」


 少年はきびすを返して駆け出す。私は絶対に見失わないようにその後ろ姿を睨みつけた。


「ごー、ろーく、しーち、はーち、きゅーう……じゅう!」


 ばっと走り出す。


「勝負ます!」


 しかし、私の足は見事にもつれてしまった。


「!?」


 ばたっと、顔から派手に転ぶ。地面は濡れていて、泥だらけだ。


 しばらくその姿勢のまま動けなかった。たぶん、顔は泥まみれになっている。


 ――ぷっ。


 明らかに噴き出して私を笑う声だった。


 私は内心むかむかっとして、唸り声を上げながら立ち上がった。


「このー……」


 ――ふふ、ふふふふ!


「待つますー!」


 ――あはっ、あはは!


 軽やかに足音を立てながら彼は走っていく。私はその後ろを全力で追いかけた。


 息が上がる。足の裏がちょっと痛い。


 でも不思議と不快ではなかった。


 太陽はどんどん沈んでいく。私の影はますます長くなって、彼の足元にも長い影が見え始める。


 ばたばたと騒がしく走り回る。きゃあきゃあ笑う声が聞こえる気がする。


 楽しい。ずっとこうしていたい。そんな風にすら思った。


 でも、もうすぐ時間切れだ。


 太陽の光が地平線の向こうに消えていく。


 私は彼との距離をぐっと詰め、彼の足元にある影を、勢いよく踏みつけた。


「影踏んだ!」


 彼はぴたっと立ち止まる。私は彼の影を踏んだ姿勢のまま、ふふんっと鼻を鳴らした。


「写見!」


「お嬢さん!」


 絵巻屋と化身が慌てて近づいてくる。


 私は正面から彼を見た。


 首をかしげて尋ねる。


「……楽しかったますか?」


 彼も私に向き合っていた。彼の後ろで太陽の最後の光が細くなっていく。


「私は楽しかった」


 真剣に気持ちを伝える。私にも彼にも、きっとそれが大事だ。


「遊んでくれてありがとうます」


 彼に右手を差し出す。遊んでくれた相手にはこうするものだと、私は知っていたから。


「お前のカタチは――『影踏み鬼』ます」


 ぶわっと風が吹きつける。手を握り返した少年の体が崩れて、風に巻き込まれて消えていく。


 最後に、ぬりつぶされていたはずの彼の表情が見えた気がした。


「……消えた」


 ぽつりと言う。


 化身が勢いよく抱き着いてきた。


「モォー! なんでこんな無茶するのサ!!」


「……ごめんます」


「ごめんで済むことと済まないことがサァ!」


「でも、あの子が遊びたかったのは私だったます」


 化身の顔をじっと見上げる。彼はそれだけで私の言いたいことが理解できたようだった。


 しかし彼は、大きくため息をつきながら、私のことをさらに強く抱きしめてきた。


「ホント、勝手に無茶はしないでよネ。次からは置いていったりしないからサ……」


 ぐりぐりと頭をすりつけてくる化身を、私は逆になだめる。


 その時、筆を握ったまま宙を睨みつけていた絵巻屋が口を開いた。


「あれの存在が消えました」


「……!」


「あのアヤシは、もう二度と現れることはないでしょう」


 私は彼が消えたほうを見る。太陽はもうすっかり沈んでしまっていて、私たちの影はない。


「アイツ、笑ってた」


 ぽつりと言う。


 胸の中には、ぽかぽかした思いが残されていた。


「きっと楽しかったます」





「よいしょ」


 絵巻屋に頼まれた通り、店の外で干してほしいと言われていた荷物を運び終わる。


 私は無意識のうちに、赤くなってしまった額をぺたぺたと触っていた。


 あの事件から数日たっても、派手に転んでぶつけた額はまだひりひりする。


 運動というのは、すごくがんばるとこういうことがありえる。


 今回やってみてはじめてわかったことだ。




 ――ふふっ、あははっ。




「!」


 顔を上げる。


 店の近くでいつも遊んでいる子供たちの声だ。


 ぼんやりそれを見ていると、店の中からふわふわと出てきた化身に頭上から尋ねられた。


「お嬢さん、ああいうのに混ざりたいカイ?」


 私はぱちりとまばたきをし、子供たちを見て、もう一度化身を見た。


「今は絵巻屋の弟子が楽しいます」


 しっかりと立ち上がり、化身に向かって誇らし気に胸を張る。


「私はここがいい」


 化身はちょっとの間黙った後、私に抱き着くようにして、ぐりぐりぐりぐりと頭を撫でてきた。


「痛います。何するますっ」


「フフ、フフフ、何でもないヨォ」


 首を振って抗議すると、化身はようやく私から離れた。


 ちょっと不機嫌になりながら店の中へと戻る。そして絵巻屋に声をかけようとしたが――彼がじっと何かの紙を見ているのに気づいて足音をひそめた。


 何を見ているのだろう。


 音を立てないようにゆっくり畳に上がり、絵巻屋の背後からそっとそれを覗き込む。


 私は首を傾げた。


「? 似顔絵ます」


 絵巻屋はビクッと派手に肩を跳ねさせた後、慌ててその紙を隠そうとした。


 私が描いたあのへたくそな似顔絵だ。


「見てたます?」


 こてんと首を傾けて尋ねる。


 絵巻屋は苦々しい顔で私をちらりと見た後、目を逸らしながら吐き捨てた。


「……アヤシが描くには下手くそすぎたんですよ。蛙が暴れた跡かと思いました」


 そう言いながらくるくると絵を丸めて文机の引き出しにしまいこむ。


「そんなことより別の仕事を与えます。早くこちらに来るように」


 早口で言いながらすたすたと絵巻屋は去っていってしまう。


「ああ言いながら捨てたりしないんだよナァ」


 愉快そうな様子で化身が言う。私はふと気づいて化身を呼んだ。


「化身」


「ン?」


「あのな」


 背伸びをして化身の耳元に口を近づける。


「実は、アイツが助けてくれるまでずっとこっちが見えてた」


「……え?」


「だから、絵巻屋が私の気持ちに気づいてくれたのも全部……もがっ」


 口を押さえられ、変な声を上げてしまう。


「それは内緒にしときナ。アイツ、素直じゃないからサ」


 ぽんぽんと頭を撫でられる。


 化身は楽しそうだ。私はふーと息を吐いた。


 いろいろあったけれど、誰かのために絵を描くというのは、やっぱり嬉しい気持ちになるみたいだ。


 この気持ちを相手も感じてくれていればいいのだけど。


 私は斜め上に浮かぶ化身を見上げた。


「今度はお前にも似顔絵描いてやる」


 絵巻屋の次はお前の番だ。


 私はふんすと鼻を鳴らす。


 化身は少しの沈黙のあと、優しく返事をした。


「……それは楽しみにしておくネェ」

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