第26話 絵巻屋の似顔絵

 調子外れのメロディーが、公園のスピーカーから響いていた。


 毎日夕方になると流れる音楽だ。


 床に転がっていた私は、ゆっくりと頭を持ち上げる。体の下で、床に放置されたプラスチックごみがカサッと音を立てた。


 投げ出されたままの自分の手が見える。骨が浮いて見えるほど細くて白い手首だ。


 それをなんとか支えにして、私はふらふらと立ち上がった。


 サク、サクッとゴミを踏む音を立てて、窓際へと向かう。


 足元にはゴミが散乱していて、直接床が見える場所はない。


 机の上には菓子パンの袋が積みあがっていて、コバエがくるくると飛んでいる。


 棚の上にある写真には笑顔の若い女性が写っている。でも、その隣の時計は動いていない。


 夕日が差し込んでいる窓際にたどりつくと、私はほとんど倒れるように窓ガラスに手をついた。


 ずるずるとしゃがみこみながら、すぐ近くにある公園を見下ろす。


 自分と同じぐらいの子供たちが力いっぱい公園を駆け回っている。


 どんな遊びをしているのかは知っている。だって、公園と家はこんなにも近くて、彼らの声が聞こえるぐらい窓も薄いのだから。


 鬼役が他の子たちを追いかけていく。他の子はきゃあきゃあと悲鳴を上げながら逃げていく。


 日が傾いていき、彼らの影は伸びていく。


「いいなあ」


 玄関のカギは、今日も閉められている。





 目を開く。苔むした地面が見える。


 地面についた私の手は白かったけれど、あの時よりは大きくなっている。


 ――あの時って何だっけ?


 何度かまばたきをしているうちに、意識がはっきりしてくる。


 なんだか頭の奥でちりちりとした痛みがはぜている気もしたが、私はそれを無視することにした。


 考えたくない。知りたくない。


 そんな言葉だけが脳内をぐるぐると回っている。


 私はぎゅっと目をつぶり、ぶんぶんと首を振った。


 違う。そんなことよりもしなければいけないことがあったはずだ。


 目を開き立ち上がる。すぐ隣には穴が開いた大樹があった。


「そうだ、アヤシ……!」


 木に飛びつき、穴を覗き込む。


 そこから見えた異界の光景に、私は目を見開いた。


「……!」


 絵巻屋が『私』を連れて、何かから逃げていた。


 それが何なのかは分からない。ただ、二人が通った場所に次々と物が落ちてくるのだ。


 いつの間にか異界は夕暮れになっていて、建物の影もかなり長い。


 絵巻屋と『私』の足が地面を蹴り、その後ろを物が雪崩れていく。確かに固定されているはずの物が、次々にバランスを崩して落ちてきている。


 二人の周囲には他に人影はない。はぐれてしまったのか……それとも自分たちで距離を取ったのかもしれない。


「絵巻屋……」


 絵巻屋は『私』の手を引いて走っている。彼女が私ではないと、全く気づいていないようだ。


 悲しい。寂しい。


 だけど今はそれよりも絵巻屋が危ないということのほうが大事だ。


 あれはたぶん『私』の仕業だ。


 早く『私』が私ではないことを知らせなければ、絵巻屋が危ない!


「……!」


 足元に落ちていた石を拾い上げ、木の穴の中に投げ入れようとする。


 しかし、石は穴に触れる前に砕けて落ちてしまった。


 ――この方法じゃだめだ。


 私は穴に手をかけ、首を突っ込んで叫んだ。


「おい! 絵巻屋!」


 張り上げた声が木の穴の中に反響する。


「絵巻屋、違う! それは私じゃない!」


 二人はだんだん逃げ場のない場所へと追い込まれていく。


 絵巻屋は私を振り向かない。


 私は大きく息を吸い込んで、力の限りに叫んだ。


「こっちを見ろ! 気づけ!!」


 二人の頭上にある材木の影が、不自然に揺れる。絵巻屋は筆を手に持ちながら走っている。


 ――『私』がこちらを見て、にやりと笑った。


「……っ!」


 材木を縛っていた縄がほどける。十数本の太い材木が、絵巻屋めがけて降り注ぐ。


「絵巻屋っ……!」


 すさまじい轟音とともに材木が地面にたたきつけられる。ちょうど絵巻屋がいる場所には、何本もの材木が積み重なってしまっている。


 ――ふふ、ぼくのかち。


 やけに大きく『私』の声が耳に響く。


 私は絵巻屋がどうなってしまったのかをすぐに理解したくなくて、息を止めたままその光景を見つめていた。


 時間は夕方。二人の影は地面に長く伸びている。


 『私』はしばらく楽しそうに絵巻屋がいたところを見つめたあと、軽い足取りでどこかに去っていこうとした。


 ――その後頭部に、一本の筆が突きつけられた。


『……やはりアナタでしたか』


「!!」


 材木を押しのけて立ち上がったのは、傷一つない絵巻屋だった。


 彼の周囲には細い墨がただよっていて、それらがまるで網のように編まれている。


 『私』はゆっくりと振り返り、私そっくりの顔を絵巻屋に向けた。


『何言ってるます。私は写見――』


『あの絵に想いを込めたのが誰なのか、私にわからないと思いましたか』


 絵巻屋は懐から出した紙を取り出して、『私』に向ける。


 私が描いた、あのへたくそな似顔絵だ。


『これは写見が私のために描いたものです。アナタじゃない』


 私は息をのみ、その意味をゆっくりと理解する。


 ふつふつと沸きあがってくる喜びが私の内側に満たされていく。


 絵巻屋は、筆を『私』の喉元に構えながら宣告した。


『今回の『入れ替わり』は――アナタだ』

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