第26話 絵巻屋の似顔絵
調子外れのメロディーが、公園のスピーカーから響いていた。
毎日夕方になると流れる音楽だ。
床に転がっていた私は、ゆっくりと頭を持ち上げる。体の下で、床に放置されたプラスチックごみがカサッと音を立てた。
投げ出されたままの自分の手が見える。骨が浮いて見えるほど細くて白い手首だ。
それをなんとか支えにして、私はふらふらと立ち上がった。
サク、サクッとゴミを踏む音を立てて、窓際へと向かう。
足元にはゴミが散乱していて、直接床が見える場所はない。
机の上には菓子パンの袋が積みあがっていて、コバエがくるくると飛んでいる。
棚の上にある写真には笑顔の若い女性が写っている。でも、その隣の時計は動いていない。
夕日が差し込んでいる窓際にたどりつくと、私はほとんど倒れるように窓ガラスに手をついた。
ずるずるとしゃがみこみながら、すぐ近くにある公園を見下ろす。
自分と同じぐらいの子供たちが力いっぱい公園を駆け回っている。
どんな遊びをしているのかは知っている。だって、公園と家はこんなにも近くて、彼らの声が聞こえるぐらい窓も薄いのだから。
鬼役が他の子たちを追いかけていく。他の子はきゃあきゃあと悲鳴を上げながら逃げていく。
日が傾いていき、彼らの影は伸びていく。
「いいなあ」
玄関のカギは、今日も閉められている。
*
目を開く。苔むした地面が見える。
地面についた私の手は白かったけれど、あの時よりは大きくなっている。
――あの時って何だっけ?
何度かまばたきをしているうちに、意識がはっきりしてくる。
なんだか頭の奥でちりちりとした痛みがはぜている気もしたが、私はそれを無視することにした。
考えたくない。知りたくない。
そんな言葉だけが脳内をぐるぐると回っている。
私はぎゅっと目をつぶり、ぶんぶんと首を振った。
違う。そんなことよりもしなければいけないことがあったはずだ。
目を開き立ち上がる。すぐ隣には穴が開いた大樹があった。
「そうだ、アヤシ……!」
木に飛びつき、穴を覗き込む。
そこから見えた異界の光景に、私は目を見開いた。
「……!」
絵巻屋が『私』を連れて、何かから逃げていた。
それが何なのかは分からない。ただ、二人が通った場所に次々と物が落ちてくるのだ。
いつの間にか異界は夕暮れになっていて、建物の影もかなり長い。
絵巻屋と『私』の足が地面を蹴り、その後ろを物が雪崩れていく。確かに固定されているはずの物が、次々にバランスを崩して落ちてきている。
二人の周囲には他に人影はない。はぐれてしまったのか……それとも自分たちで距離を取ったのかもしれない。
「絵巻屋……」
絵巻屋は『私』の手を引いて走っている。彼女が私ではないと、全く気づいていないようだ。
悲しい。寂しい。
だけど今はそれよりも絵巻屋が危ないということのほうが大事だ。
あれはたぶん『私』の仕業だ。
早く『私』が私ではないことを知らせなければ、絵巻屋が危ない!
「……!」
足元に落ちていた石を拾い上げ、木の穴の中に投げ入れようとする。
しかし、石は穴に触れる前に砕けて落ちてしまった。
――この方法じゃだめだ。
私は穴に手をかけ、首を突っ込んで叫んだ。
「おい! 絵巻屋!」
張り上げた声が木の穴の中に反響する。
「絵巻屋、違う! それは私じゃない!」
二人はだんだん逃げ場のない場所へと追い込まれていく。
絵巻屋は私を振り向かない。
私は大きく息を吸い込んで、力の限りに叫んだ。
「こっちを見ろ! 気づけ!!」
二人の頭上にある材木の影が、不自然に揺れる。絵巻屋は筆を手に持ちながら走っている。
――『私』がこちらを見て、にやりと笑った。
「……っ!」
材木を縛っていた縄がほどける。十数本の太い材木が、絵巻屋めがけて降り注ぐ。
「絵巻屋っ……!」
すさまじい轟音とともに材木が地面にたたきつけられる。ちょうど絵巻屋がいる場所には、何本もの材木が積み重なってしまっている。
――ふふ、ぼくのかち。
やけに大きく『私』の声が耳に響く。
私は絵巻屋がどうなってしまったのかをすぐに理解したくなくて、息を止めたままその光景を見つめていた。
時間は夕方。二人の影は地面に長く伸びている。
『私』はしばらく楽しそうに絵巻屋がいたところを見つめたあと、軽い足取りでどこかに去っていこうとした。
――その後頭部に、一本の筆が突きつけられた。
『……やはりアナタでしたか』
「!!」
材木を押しのけて立ち上がったのは、傷一つない絵巻屋だった。
彼の周囲には細い墨がただよっていて、それらがまるで網のように編まれている。
『私』はゆっくりと振り返り、私そっくりの顔を絵巻屋に向けた。
『何言ってるます。私は写見――』
『あの絵に想いを込めたのが誰なのか、私にわからないと思いましたか』
絵巻屋は懐から出した紙を取り出して、『私』に向ける。
私が描いた、あのへたくそな似顔絵だ。
『これは写見が私のために描いたものです。アナタじゃない』
私は息をのみ、その意味をゆっくりと理解する。
ふつふつと沸きあがってくる喜びが私の内側に満たされていく。
絵巻屋は、筆を『私』の喉元に構えながら宣告した。
『今回の『入れ替わり』は――アナタだ』
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