第五章 夕闇で捕まえて

第22話 ガハハと笑うお姉さん

 ぱちんと目を開くと、私は変な場所にいた。


 あたりにはぐるぐると黒い液体が渦巻いていて、どちらが上なのかわからなくなってしまいそうだ。


 なんとなく現実ではないな、と思う。


 じゃあここはどこなんだろう。妙なところに飛ばされてしまった、とは思ったけれど、不思議と私は落ち着いていた。


 感覚が鈍くなっているわけじゃない。ここは優しくて安心できるのだ。


 ううむっと考えながら首をひねる。


 その時、突然私のことを誰かがさかさまにのぞき込んできた。


「やあやあ、こんにちは!」


「!?」


 真っ白な紙で隠した、さかさまの誰かの顔だ。どうやら私の上に浮かんでいて、ぐっと逆立ちをするようにのぞき込まれたらしい。


 その人はくるんっと宙返りをすると、私の前へとやってきた。


 派手な着物は着ていないが、粗末なものでもない。化身のように顔を布で隠しているけれど、女性であることと、たぶんおばさんであることはわかる。


「誰ますか?」


 困惑しながら首をかしげる。


 すると、おばさんは大声を上げて笑い出した。


「ガッハッハ! その中途半端な敬語! アイツのことを思い出すね!」


 紙で顔は見えないけれど、大きな口を開けて笑っているのはわかった。正直、上品な笑い方ではない。


 ちょっと圧倒されながらそれを見ていると、彼女は空中で愉快なポーズをとってみせた。


「私はお姉さん。今はただのお姉さんさ」


「おねえ……?」


「お姉さんだ。いいね?」


 威圧され、こくこくと首を縦に振る。


 彼女がお姉さんと言うのならお姉さんなのだろう。


 私も自分の名前を言おうと口を開きかけた。


「私は――」


「ああ、名乗らなくていい。今の私には『名前』なんて力が強すぎてこっちが参っちまうよ!」


 大げさなしぐさでお姉さんは首を横に振る。


「力?」


「『名前』は存在を定義してつなぎとめるためのものだからね。私みたいな『残りかす』にはまぶしいのさ」


 やれやれと陽気なお姉さんは首を横に振る。


 わかったようなわからないような。


 彼女が残りかすであるという新たな謎が現れてしまったことに混乱していると、彼女は私の前にどかっと腰掛けた。


「どっこいしょぉっと」


 派手なあぐらだ。女物の着物なのに。


 私は眉をひそめながら、そんな彼女の前にちょこんと正座した。


「お行儀悪います」


「え?」


「女の子が着物でそんな座り方しちゃいけないます」


 真剣に伝えると、お姉さんはゲラゲラと笑い出した。豪快だ。


「へぇー! よく知ってるね。それもアイツに?」


「アイツ?」


「キミの師匠さ!」


 目をしばたかせ、それから首をかしげる。


「絵巻屋ますか?」


 するとお姉さんは一度言葉を切り、心なしかさみしそうな声になった。


「……ああ。今ではそうだね。今はもうアイツが『絵巻屋』なんだね……お姉さんしみじみしちゃう」


 あまりに急にテンションが下がったので、私はびっくりしてお姉さんに声をかけていた。


「お姉さん……」


「ま、なってしまったものは仕方ない! 時間の流れってのはそういうものさ!」


 テンションをころころっと変え、お姉さんはガハハと笑う。


 なんなんだろう。不思議な人すぎる。


 上から下まで彼女の姿を見る。下着が見えてしまいそうな豪快な姿勢で、どう見ても行儀が悪いのに、なんだかかっこいい。


 もしかしてこれが包容力というやつなのだろうか。彼女を見ているだけで安心できる気がした。


 そのおかげで私もものすごくリラックスした気分になる。


 異界に来てからずっと感じていた、怖いものもそわそわするものもない。


 まるで柔らかい布団に包められてぎゅーっとされているみたいだ。


 私は彼女にならってちょっと足を崩した。


「お姉さんはどうしてここにいるますか?」


 素直な疑問をぶつけると、紙の向こう側でお姉さんがにまーっと笑った気がした。


「キミがアイツを幸せにしようとしてると聞きつけてね。いてもたってもいられなくなって無理矢理出てきたのさ!」


 胸を張って「ワッハッハ!」と高らかにお姉さんは笑った。


 私はぽかんと口を開ける。


「無理矢理」


「そりゃあもう、ぐいっとね! 因果の渦に押し込んでやったよ!」


 宙を掴んで、ぎゅっぎゅっと何かをねじ込む仕草をする。


「アリの巣に大量の『なまくりーむ』をぎゅぎゅぎゅーっと詰め込む感じでさ!」


「……アリさん可哀想ます」


「何を言うかい! アリだって『なまくりーむ』でおぼれるなら本望さ!」


「アリさん可哀想ます……!」


 小さな小さなアリたちが生クリームの海にガボガボ沈んでいくのを考えて、きゅっと顔を歪めさせた。


「本当に無理矢理ます」


「ああまったく。おかげでちょっと存在を『だいえっと』しちまったじゃないか」


 ただでさえもうないも同然なのにさーっと、あっけらかんと彼女は言う。


 不穏な内容が聞こえたような、聞こえなかったような。


 でもそれに言及する前に、お姉さんはずいっと私に身を乗り出してきた。


「あんまり時間もないからさ。言いたいことだけ伝えようかな」


 面白がっているような声だ。たぶん見えないけれど口はずっと笑顔なのだろう。


 だから私も気軽な気持ちで尋ね返した。


「何だます?」


 お姉さんはふふふっと笑ってから私を呼んだ。


「あのね、弟子ちゃん」


「はいます」


「たくさんたくさんあの子を描いてあげてね」


 きょとんと首を傾げる。


「絵巻屋のことますか?」


「うんうん。あの子のこと、すっごくたくさん描いてあげてほしいんだよ」


 その時のお姉さんの声は、まるで願い事をしているみたいに聞こえた。神様に向かって気軽に願うような、だけど真剣で優しくて、心の底から慈しんでいる声だ。


 絵巻屋の顔を思い出す。


 ぶっきらぼうで、たまに表情が変わる、かっこいい師匠だ。


 お姉さんはお面の向こうでニカッと爽やかに笑った。


「あの子が生きていたいって思えるぐらい、あの子が生きていた証が残るぐらい、うんとたくさんね!」


 彼女の愛情がぶわっと押し寄せてくる。期待されたこちらまで暖かい気分になる。


 すごい任務だ。でも絶対に成し遂げたい。


 私は力強くうなずいた。


「任せろます」







 ぱちりと目を開く。


 見たことのある天井だ。こげ茶になった柱とぐるぐるした模様のある板が見える。


 ちょっと考えて、ここが絵巻屋の店だということを思い出した。


 私は不思議な夢を見たことをぼんやり思い出しながら体を起こす。


 すると、自分の手に何かが握られていることに気がついた。


「?」


 布団を持ち上げてみると、そこにあったのは私がもらったあの筆だ。


「なぜ?」


 眠るときには持っていなかったはずのそれを前に、私は首をかしげる。


 でもそれに答えてくれる人はいない。


 ますます不思議に思ってじーっと筆を見ていると、部屋を仕切る障子がすっと開かれた。


「起きましたか」


「今日はお寝坊サンだったネェ」


 開いた障子から、絵巻屋と化身がのぞき込んでくる。


 私は一度、くわっと大あくびをした後、ぺこりと二人に頭を下げた。


「おはようます」

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