第20話 どうして絵が上手いのか

 体がふらつく。だけど、どこかには行かないといけないという意識は残っていて、私は足を一歩、二歩、踏み出していた。


 ゆらゆらと体を揺らしながら、私は墨守の家の前に立った。


「■■ちゃん?」


 墨守が誰かの名前を呼びながら家から出てくる。


 でも、その名前はざらざらした音に遮られてうまく聞こえなかった。


 彼の顔を見ることもできずにぼんやりと宙を見ていると、彼は私の目の前にひらひらと手を振ったあとにちょっと顔をしかめた。


「あー……これは完全に惑わされちゃってるね」


 惑わされている?


 よくわからない。でも体の奥は「そうだ」と叫んでいる気がする。


「ほら、こっち向いてごらん」


 私は墨守に腕を持たれ、彼と向き合う。彼は両手を持ち上げた。


 ――パンッ!


 突然目の前で手を叩かれ、バチンとスイッチが切り替わるような感覚がした。


 驚いて目をぱちぱちさせる。景色がはっきりとして、墨守の顔もまっすぐ見ることができるようになる。


「まったく、事はすぐ困ったことをするんだから」


 墨守は大きくため息を吐き、かがんで私に視線を合わせてきた。


「お嬢さん。自分の名前が言えるかな」


 ゆっくりとそう問われ、私は口を開く。


「私は」


 ぐるぐる渦巻く頭の中から、文字を拾い上げる。


 絵巻屋にもらった、大切な文字。


「私は、『写見』」


 すとんっと足が地面についた気がした。


 止まっていた世界が動き出し、私はきょろきょろとあたりを見回した。


 竹林に囲まれた墨守の家だ。


「正気に戻ったかい?」


 まだ状況がわかっていない私はこてんと首をかしげる。


 墨守はふわっと笑った。人を安心させるような笑顔だ。


「今お茶を入れてあげるね。ほら、中にお入りなさい」


 腕を優しくとられ、家の中に連れ込まれる。


 座布団にすとんと座らされ、目の前に湯飲みを置かれた。


 ちらっと墨守を見ると、「どうぞ」とすすめられる。


 私は湯飲みを持ち上げ、その中身を喉に流し込んだ。


「あったかい……」


 お茶の熱と香りがじわじわ私の中にやってくる。


 事にぶつけられてしみ込んだ、冷たい言葉が溶けていく。


「何があったのかは聞かないよ」


 優しい声で墨守は告げる。


「事が惑わしたんだ。だったら、それは君自身が解決すべき問題だからね」


 私自身が、解決すべき問題。


 何を言われているのかはやっぱりわからない。


 ううん、違う。なんとなくはわかっている。


 ……今はまだ、向き合いたくないだけで。


 とりあえずお礼を言うべきだと思って、私はぺこりと頭を下げた。


「ありがとうます」


「あはは、素直ないい子だね君は。どこかの誰かとは大違いだ」


「?」


 穏やかに墨守は笑う。


 その言葉に、なぜか絵巻屋の仏頂面が脳裏に浮かんだ。


 うーんと思いながらふと横を見る。そこには、乱雑に積まれた紙の束があった。


 鮮やかな色がちらりと見え、私はぱちくりと目をまばたきをした。


「絵がある」


「うん。私が描いたものだよ」


 墨守は立ち上がると、その中の一枚を私に手渡してくれた。


 その絵にはたくさんの色が使われていて、でもごちゃごちゃしていなかった。遠くに高い山と、小さく人間がたくさん描かれている。


 まるで異界の景色の一部を切り取ったかのようだ。


「すごいな」


「あはは。ほめてくれると嬉しいよ」


 素直にほめると墨守は照れ臭そうに頬をかいた。


 私は絵をじっと見ながら尋ねた。


「墨守は絵巻屋の師匠か?」


 もしそうなら、墨守は私の師匠の師匠ということになる。


 それならもっと敬うべきかな、と内心少し焦り始めた。


 だけど、それを聞いた墨守は大きく口を開けて笑い出した。


「ハッハッハ! そんなわけないだろう!」


 そんなにおかしいことを言っただろうか。


 内心ムッとしながら私は彼をじとっと見る。


 墨守は腹を押さえて、くくくっと笑いを飲み込み、ふにゃふにゃ私に笑いかけた。


「私はただ墨を守ってるだけだよ。この異界は、あの墨がないと存在できないからね」


 首をこてんと傾ける。


 理解できない言葉だ。


 私はいぶかしみながら、絵に視線を戻した。


「でもこの絵、すごいます」


「ふふっ。ありがとう、写見ちゃん」


 照れ臭そうに墨守はお礼を言う。私ははっと気づいて、気になっていたことを墨守に尋ねることにした。


「お前は絵巻屋のことを知っているか」


「そうだね。昔から知ってるよ。本当に昔から」


「!」


 思った通りだ。彼なら知っているかもしれない。


 私は彼に身を乗り出した。


「絵巻屋もすごい絵を描くます」


「そうだね。彼の絵の腕は大したもんだ」


「どうして上手い?」


「え?」


 墨守はきょとんとした顔をする。私はぱたぱたと手を動かしながら主張した。


「絵は誰かのために描くものます」


「おやおや。もうそこまでわかってるのか」


 墨守は嬉しそうに目を細めた。


「偉いねえ、おじさんが褒めてあげよう」


 うりうりと撫でられ、顔をしかめる。違う。ほめられたかったわけじゃない。


 私はさらに主張した。


「絵は、誰かのために、描くものます」


 そうやって強く言い張ると、ようやく墨守は理解したようだった。


「ああ、そうか。それで『どうして上手い』かい?」


 こくりと首を縦に振る。


 絵巻屋は絵が上手い。だったら誰かのために描いているはずだ。


 それがわかれば、私ももっと絵が上手くなるかもしれない。


 ふんすと鼻を鳴らしながら、私の頭から手を離した墨守に向き合う。


 墨守は穏やかに目を細めた。


「そうだね。あの子はこの異界のために絵を描いてるのさ」


「異界の?」


「滅私奉公ってやつだな。あの子にとって、自分自身はどうでもいい」


 優しいまなざしだ。でも、どうしてかさみしそうな、悲しそうな雰囲気がする気がする。


「そんなに先代の影を追いたいのかねえ……」


「その人のために絵巻屋は描いてるますか」


 よくわかっていないまま問い詰める。墨守は目を伏せた。


「アイツの絵はすべて、師匠への弔いなのさ」


 とむらい。


 聞いたことがない言葉だ。


 でも悲しそうな墨守の顔が、その言葉があまりよくないものだということを伝えていた。


「絵巻屋は幸せじゃないってことますか」


「そうだなぁ」


 墨守は「はい」とも「いいえ」とも言わなかった。


 その代わりに湯飲みをじっと見つめている。彼が何を思っているのか私にはわからない。


 何も言えないまま私が待っていると、ふと墨守は顔を上げて私を見た。


「写見ちゃん。君があの子を幸せにしてみるかい?」


「幸せに?」


 きょとんと目を丸くする。


 絵巻屋を幸せにする。


 たしかに私は、絵巻屋が幸せじゃないのはいやだ。


 私に名前をくれて、ここにいていいと言ってくれて、よくできたらほめてくれる。


 とてもいい師匠なのだ。たぶん。


「私にできるますか」


「それは君次第だよ」


 自信がなくてよわよわしく言うと、墨守は静かに答えた。


「君が何になりたいか。それが問題さ」


 何になりたいか。


 どういうことだろう。


「見たところカタチが定まってないんだろう?」


 ぴくりと肩が震える。


 事にいわれたことがじわっとまた染み出てくる。


 だけどそんな私を、墨守はのぞき込んできた。


「カタチが定まってないってことは、まだ選ぶ余地があるってことでもある」


「えらぶ」


 オウム返しに繰り返す。墨守はじっと私の顔を見た。


「君は、何を選択する?」


 選ぶ。


 何を選ぶのか。選べるものは何なのか。


 わからない。


 目を伏せて、墨守の視線から逃れる。


「……よくわからないます」


 ふっと優しく墨守が笑う気配がした。


「今はそれでいいよ」


 頭に手が乗せられ、よしよしと撫でられる。


 その感触を感じていると、温かくて安心する気持ちになった。


 手が頭から離される。墨守はぶつぶつ言いながら立ち上がった。


「はぁ。口出ししないつもりだったのに口出ししちゃったな。まったく私は……」


 よたよた歩いていく彼を見送っていると、墨守は振り向いてにこっと笑った。


「茶菓子を持ってくるね。お茶にすごく合うやつを買ったんだよ」


「お菓子」


 ぴくっと体が動き、私は思わず言っていた。


「おだんごか」


「ふふ。おだんごもあるよ。それがいいかい?」


「おだんご、好きます」


「わかったよ。今用意するね」


 墨守はひとつ大きくうなずき、別の部屋に消えていく。


 私は座布団の上にちょこんと座りながらそれを待っていたが――ふと、さっき墨守が見せてくれた紙の束に見覚えのある絵があるのに気が付いた。


 てくてくと歩き、その絵を持ち上げる。


 そこには裸の女性とどこかの室内が描かれていた。


 私はぐーっとそれを観察する。


 これは一体何をしているんだろう。裸になって楽しいことでもあるんだろうか。寒いだけだと思うのだけど。


「おや、見つけちゃったね」


 お菓子を持って帰ってきた墨守が、後ろから絵をのぞき込む。


 私は彼にその絵を見せた。


「墨守、これは何ますか」


「ふふふふふ、それは春画だよ。僕が描いたんだ」


 妙に嬉しそうに墨守は答える。


「春画。二人も言ってたます」


 たしか私から取り上げた絵を持ちながらそんなことをギャンギャン言い合っていたはずだ。


「私が見つけたら大騒ぎしてたます」


「まあ、そりゃそうだろうねえ」


 墨守は私の横に腰を下ろす。


 私は裸の女性を指さした。


「墨守。これは何をしているところますか」


「うんうん、これはねぇ」


「こんのエロ親父ィイイイ!!」


 突然響いた大声に私は座っていたのにちょっと飛び上がる。


 次の瞬間私の体はきれいな着物に包まれ、墨守がすっ飛ばされる派手な音が響いた。


「チョット目を離したらすぐこれだよ! わかってんのカ!? オマエみたいなのを現世じゃロリコンっていうんダヨ!」


「おやおや」


「オヤオヤじゃねぇんだよナァ!!」


 ガルルルルッと威嚇をする化身の声が頭上で響き、私は自分が今彼の腕の中に隠されていることに気が付いた。


「オマッ、オマエ! こんなモン、この子に見せてたのカヨ! 変態! この変態!」


「ははは。ほめるなほめるな」


「ほめてネェヨ!!」


「化身どうした」


「お嬢さんはもう顔出しちゃダメ!」


 出そうとした頭をぐいっと服の中に戻される。私は朱色の着物の中でおぼれそうになりながらじっとすることしかできない。


「ホント、オマエ、ヨォ! 教育に悪いってレベルじゃねぇヨ!?」


「失礼な。これは健全な教育の一環で」


「もっ、もうオマエ、黙レ馬鹿!!」


「……何をしているんですか」


 低い声が静かに背後から響く。絵巻屋の声だ。


「聞いてくれヨ、絵巻屋! この変態、ついに幼女に手ェ出しやがっタ!」


「……私は、アナタに、目を離すなと、言ったつもりでしたがね?」


「うっ……」


 化身は言葉に詰まる。私はようやく、すぽんっと彼の服から顔を出した。


 墨守は化身の向こうに絵巻屋を見る。


「絵巻屋」


 墨守はいとおしいものを見るように目を細め、穏やかに絵巻屋に言った。


「弟子を大事にしなさいね。この子にとっては師匠は君しかいないんだから」


 返事は聞こえなかった。その代わりに絵巻屋は私たちに声をかけた。


「帰りますよ、二人とも」


 そのまま化身に引きずられるように私はその家を後にする。


 黙っていた絵巻屋がどんな顔をしていたのか、私にはわからなかった。

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