第15話 アヤシを惹くもの
和紙を睨みつけながら筆を持ち上げ、べとんと紙につける。
そのままの勢いでぐねっと曲がった線を引く。ちらっと見たのは絵巻屋にもらったお手本だ。
曲がるのは三回。お手本通りの位置を目指して、ぐいぐいと筆を動かしていく。
十数秒かけて目標の終着点にたどりついた私は、筆を置いて、すぐ隣にあるお手本と自分の描いた線を見比べてみた。
「……全然違う」
絵巻屋が描いた線は生き生きとして飛び出してきそうなのに、私の線は何度も立ち止まってしまって歪んでいる。
位置は間違っていないはずなのにどうしてこんなに違うのか。
「練習に精が出るネェ」
突然背後から声をかけられ、肩が跳ね上がる。
私は振り返り、ぷかぷか浮かぶ化身をじとっと見た。
「びっくりした」
「ゴメンゴメン。次からはもうチョット気を遣うネェ」
うさん臭く笑いながら、化身はするっとこちらに飛んでくる。
「どうダイ? ちょっとは上手くなったカナ?」
手元を覗き込まれる。私の周りには何枚もの書き損じが広がっていた。
だけど、そのどれもが上手くいかなかったものばかりだ。
「だめだ」
絵巻屋のお手本を持ち上げ、ぐっと睨みつける。
「同じだけ曲がってるのになんでだ」
線の太さはそこまで変わらないはずだ。曲がる回数も同じ。場所も寄せるようにしている。なのに、何かが違う。
むむむっと線を目で追っていると、化身はからからと笑った。
「大事なのは回数じゃないんだヨ」
「じゃあ何だ」
私は顔を上げる。しかし、化身は肩を一度すくめると、するっとどこかに飛んでいってしまった。
「む……」
ごまかされてしまった。化身はこれ以上答えてくれないだろう。
私はもう一度お手本をぐっと見た後、それを丁寧にたたんで店のほうに出ている絵巻屋へと近づいていった。
文机の前に座った絵巻屋は、本や巻物を広げてじっと読み込んでいるようだった。タバコを噛んでいて、とても真剣そうな顔だ。
「絵巻屋、何をしている」
彼の隣にちょこんと座って尋ねる。しかし絵巻屋は答えなかった。
聞こえなかったのかと思い、私はもう一度口を開く。
「なあ、絵巻――」
「写見」
とても低い声で名前を呼ばれて、びくっと体が固まる。一気に汗が噴き出る。頭の中がぐちゃぐちゃにかき混ぜられる。
嫌だ。この声色は、なんだか嫌だ。
「あっちに、行っていてください」
鋭い目がこちらに向けられる。その目はいつも通りのもののはずなのに、私の喉は「ひっ」と音を立ててしまっていた。
慌てて立ち上がり、元いた場所に逃げ帰る。
倒れるようにして座り込み、ばくばくと暴れる心臓の上を押さえる。震えながら縮こまる。
「……大丈夫カイ?」
ゆっくりと化身が下りてきて、顔を覗き込んでくる。
私は大きく何度か深呼吸をしてから、うつむきがちにうなずいた。
そのまま私たちは沈黙していたが、化身はそわそわっと体を動かしたあと、私に話しかけてきた。
「絵巻屋を許してあげてくれないカナ」
ぴくりと指に力がこもる。
「悪さをするアヤシは早めに対処しないとまずいからサ。ちょっと苛立ってんダヨ」
「私」
少し高い位置にある化身の顔を見上げ、震える声で尋ねる。
「嫌われた、か」
消えそうなほど小さくそう言うと、化身はちょっと固まったあとに、わたわたと手を動かし始めた。
「嫌ってナイ嫌ってナイ! アイツは、まだまだお嬢さんにどう感情向ければいいのか分かってないだけサ!」
騒がしく動き回りながら、化身は私に声をかけてくる。
「ダカラ安心しナ。ナ?」
化身のなだめる言葉はなかなか胸の中に入ってこなかった。
ざわざわ、そわそわと、体中が落ち着かない。
私はばっと立ち上がると、置いたままだった筆を取った。
「描く」
和紙を広げて、筆に墨をつける。
「練習する」
べとっと紙に筆を押し付ける。力任せにそれを引っ張る。
いやだ。ここにいたい。
期待に応えればここにいていいはずだ。
期待に応えたい。
必死に線を曲げる。曲げる。曲げる。筆を持ち上げる。
「っ………」
だけどできあがった線はやっぱりこれまで通りだった。
勢いなんてどこにもなくて、墨の跡はまるで跳ねた泥のようで、絵巻屋のお手本とは似ても似つかない。
私は顔を歪め、目元をごしごしとこすった。
涙は出ていない。多分、顔が墨で汚れただけだ。
「化身」
ぽつりと背後で見守っている化身に声をかける。
「どうすれば、できるようになる」
どうしようもなくて、途方に暮れた音が出た。
化身は沈黙の後、すっと私の肩越しに私の線を覗き込んできた。
「お嬢さんは何のために描いてるんダイ?」
突然の質問に私は面食らって、考え始める。
「私の……」
私が描く理由。
……私が描くのは、私が上手くなりたいから。多分、そうだと思う。
「質問を変えようカ」
するっと飛んで、化身は私の前にやってくる。
「お嬢さんが最初に筆で服を描いた時、お嬢さんは何を考えて描いたんダイ?」
何を考えて?
自分の線を見つめながら、私は考える。
あの時はそう。紗綾が街につれていってくれて、服をくれて、おだんごを食べさせてくれて。だから。
「紗綾に、恩返しを」
「ウンウン。それデ?」
「それで……」
服がほしいと言った紗綾。紙をかざした私。まるで何かをなぞるように筆を走らせた私。欲しい服を手に入れた紗綾。彼女の――嬉しそうな笑顔。
「紗綾を、幸せな気分にしたくて」
俯いたまま答える。化身は小さく笑った。
「それが答えダヨ」
顔を上げる。意味がわからない。
化身はけらけらと笑った。
「本番が来たらわかるサ。焦らない焦らない」
またごまかされた。内心むっとして、じとっと化身を見る。
その時、静かに近づいてきた畳を踏む音に私は小さく体を跳ねさせた。
「……!」
「オヤ、手がかりは見つかったのカイ?」
こちらにやってきたのは絵巻屋だった。絵巻屋は目の間をぐりぐりと揉んでいる。
「いえ。少し休憩に来ただけですよ」
絵巻屋は部屋の中央に置かれたちゃぶ台の前に、静かに腰かける。
私は動けないままちらちらと彼をうかがう。
またあんなふうに恐ろしく呼ばれてしまうかもしれない。私は迷った末に、勢いよく立ち上がった。
「お茶、いれる!」
「――写見」
名前を呼ばれて立ち止まる。おそるおそる絵巻屋を見る。
絵巻屋はこちらから目を逸らしながら、ぽつりと言った。
「……先ほどはすみませんでした」
きょとんと目を丸くする。
絵巻屋は立ち上がると、そのまま動けないでいる私を通り越していってしまった。
「お茶は私がいれます。アナタはここで待っているように」
台所に消えていく絵巻屋を呆然と見送る。
私は、ワナワナと震えながら化身に尋ねた。
「私、お茶もいれられないと、思われたか」
「アー、チガウチガウ。今のは絵巻屋の気遣いダヨ」
マッタク不器用なんだかラ、と言いながら化身はため息をついている。
まだ状況を理解していない私を、化身は手招く。
「こっちに座りなヨ。待ってるように、って言われたダロ?」
呼ばれるままに用意された座布団の上にすとんと座る。
遠くでお湯が沸く音がして、少し経ってから板間を踏む音が聞こえてきた。
「ホラ、お茶が来たよ。飲んで落ち着きナ」
目の前に湯飲みが置かれる。ちゃぶ台の向こうに絵巻屋が座る。
私はおそるおそる湯飲みを持ち上げると、ずずっとお茶をすすった。
舌に触れて、喉を通り越した熱が、じわっと胸に広がっていく。
「お茶、あたたかい」
「……それはよかったです」
ぶっきらぼうな言い方だったけれど、今の絵巻屋の言葉には嫌な感じはしなかった。
よかった。嫌われていなかった。その実感が温かさと一緒に浸みこんでくる。
もう一度、お茶をすすり、暖かい息を吐く。
私がくったりと脱力していると、そわそわとしていた化身が話をそらすように絵巻屋に声をかけた。
「で、何も手がかりはないのカイ?」
「……まだ見つかっていません」
絵巻屋も湯飲みを傾けながら答える。
「あの辺りの土地に縁があったトカ?」
「いえ、あの店そのものに惹かれているのかもしれません」
「『貸本屋』って対象に惹かれてるッテ?」
「それがどう天気雨と関係しているのかは、まだわかりませんが」
頭の上で交わされていく会話に、よくわからないまま私はぼんやりと何か役に立ちたいと思った。
どうやらあれはキツネの仕業ではないらしい。じゃあ、あの場所に変わったものはなかっただろうか。
晴れているのに降る雨。貸本屋。茶屋。
何か他に変なことは――
「……らぶらぶ」
「え?」
ぽつりと声に出てしまったことを、口を押さえて隠す。
しかしその時には二人はもう私へと注目していた。
「写見。今、何と?」
真剣な目で絵巻屋が見つめてくる。私は口を押さえたまま目を泳がせる。
「あんまり言うなって言われた」
「手がかりになるかもしれません。教えてください」
言ったほうがいいかもしれない。でも約束はしたのだ。言わないほうがいい。
どうすればいいかわからず、視線を迷わせる。
「お願いします」
丁寧にそう言われ、私はびっくりする。
大人にそんなことを言われるなんて思ってもみなかったのだ。
だからつい、私は小さく確認してしまった。
「……内緒にするか?」
「必ず内緒にします」
絵巻屋の顔は大真面目だ。
これなら多分、内緒にしてくれるはず。
私はそわそわと右手を何度か握ったあと、そっと絵巻屋に小指を差し出した。
「指切り」
絵巻屋は意表をつかれた顔で固まった後、そろそろと右手の小指を差し出してきた。
私の細い指と、絵巻屋のしなやかだけど大人の男の指が絡まる。
「ゆーびきーりげんまん。うそついたらはりせんぼんのーます」
ちゃんと歌も歌って指を揺らす。
「ゆびきった!」
指を離す。
ピン、と何か糸が張ったような感じがした。
それが一体何なのか考えるよりも前に、絵巻屋はえへんと咳をした。なんだか照れているようなごまかしているような顔だ。
「それで、何を内緒にするように言われていたんですか?」
私は重々しくこくりとうなずくと、手をかざして絵巻屋にヒソヒソ話をした。絵巻屋も耳をこちらに近付けてくる。
「あのな」
「はい」
「途糸と宵腕はらぶらぶなんだ」
「はい。……らぶらぶ?」
絵巻屋は顔を遠ざけながら、困ったような顔になってしまった。
くだらない内容すぎただろうか。
私が慌てて何か言い訳をしようとしていると、化身は納得したといった声を上げた。
「アー、なるほど?」
大袈裟な身振りで化身は手を打つ。
「つまり、貸本屋の娘と茶屋の男が恋仲ッテことカイ?」
「恋仲」
「カップルか? ってことダヨ」
化身に言い直され、私はうなずく。
「すごくらぶらぶだった」
「へえ。どんな風にらぶらぶだったんダイ?」
「ぎゅってしたりとか、
ぱたぱたと身振り手振りをしながら二人に伝える。
その時、困惑で固まっていた絵巻屋は急に手を打った。
「それだ」
びっくりしてそちらを見ると、絵巻屋は顎に指をあてて机を見ていた。
「あのアヤシが惹かれていたのは、場所ではなく人だったんです」
「アーなるほどネ。対象は『夫婦になりたい二人』ってコトカ」
また話に置いていかれている。
だけど今度はなんとか話に追いついて、私は二人に尋ねた。
「アヤシは、途糸たちに近付いたのか?」
「ええ。そして、今回の天気雨はやはり『キツネの嫁入り』です」
絵巻屋はすっと姿勢を正す。つられて私も姿勢を正した。
「このアヤシの『カタチ』は――」
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